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04. 五条悟の〝心〟と〝規範〟の話

同人誌『瞼の裏で覚えてる』より再録。
この記事の大幅加筆修正版です。

 真人(と彼に影響された順平)は人の心を魂の代謝と呼び、まやかしと形容した。この表現は、むしろ五条の方に当てはまるように思う。

五条の〝心〟について

 五条の軽薄で胡散臭い態度は〝人の振り〟ではないかと感じられる時がある。漏瑚が指摘したように、本来の五条は冷酷さを兼ね備えている。強い呪霊を祓う際にある程度の犠牲を想定しているし、自分にとって重要ではない赤の他人は、数で捉えているような節も見受けられる。一章で五条は人間関係に順位付けが行えるタイプと書いたが、教団の教徒を殺そうとあっさり提案できたあたりからもそんな気配がした。

 五条は決して情がないわけではない。現に、出会って間もない虎杖の死に際して本気で怒っている様子を見せた。だが、虎杖を純粋に自分の生徒として可愛がろうとしていた以外に、虎杖を上層部への切り札としていた冷徹な打算もなかったとは言えないだろう。むしろそちらの方に重点が置かれているようにも見える。無機質な本質を情で覆い隠しているかのように。

 高専時代の五条はあまりにも表情が豊かだ。いっそ過剰なほどに。口も態度も悪く、ぎゃあぎゃあと友人と騒いで先生に怒られている。とても良家の子息らしい振る舞いではない。というより、露悪的にすぎる。まるでわざと反抗的に振る舞って周囲を試しているようだ(思春期にこういう態度を取ること自体は、別に不思議ではない)。

 その態度は、高専を卒業して(教員免許を取るために大学を挟んでいるかもしれないが)教職に就いても直らない。世界のすべてに牙を剥くような思春期の不安定さは表立っては鳴りを潜めたが、いい歳をした大人の振る舞いには見えない。

 アニメ九話がそうだったが、七海に対して下ネタを言って気を引こうとするなんて小学生男子じみた幼さだ(一〇話もだいぶ理解が追いつかないですね……)。だが、本人の情緒があまり育っていないのであれば納得できる。あえてそういう振りをしている線も十分考えられるが、どちらにせよ、大人にはなりたくないのだろう。物わかりがいいだけの大人には。

 もしかしたら、高専で夏油たちと接して、人の振りを始めたのではないか。人間らしさを取り繕った表層の人格が、あの軽薄で傲岸不遜で傍若無人な態度ではないか。

 心は目に見えない。態度や振る舞いや表情、あるいは言葉尻から推し量るしかない。そのひとつの表情は、一種の学習の産物だ。狼に育てられた双子は表情が乏しかった例からわかるように、感情の表出にはインプットが必要になる。ある状況下でするであろう反応を学習し、そのように感情を表現する。表情は学習によってしか得られない。

 五条の過剰なほどの豊かな表情は、心の動きが乏しいがゆえに、誇張して表出しているからではないだろうか。

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