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05. 肉体と魂と心、あるいは人の呪い〝真人〟の話

同人誌『瞼の裏で覚えてる』より再録。
この記事の大幅加筆修正版です。

 肉体が先か、魂が先か。心は幻想か。
「人が人を憎み恐れた腹から産まれた呪い」である真人は、魂が肉体より先にあると定義し、心を魂の代謝――まやかしと呼ぶ。はたして、本当に魂は肉体に先んじる代物なのか。心は本当にまやかしなのか。


肉体と魂、どちらが先か

「肉体に魂が宿るのかな? それとも魂に体が肉付けされているのかな?」
「前者」
「不正解。答えは後者。いつだって魂は肉体の先にある。肉体の形は魂の形に引っぱられる」

 七海は肉体が先と言い、真人は魂が先だと言う。結論から言えば、この定義は人間と呪霊で異なっているのではないかと思う。人間は肉体が先で、呪霊は魂が先だ。

 真人は人の呪いそのものだ。「人が人を憎み恐れた腹から産まれた呪い」というのは、人を呪いたいと思った負の感情そのものが凝って形を為した呪いということだろう。フランケンシュタインの怪物じみたつぎはぎの容貌は、人から漏出した呪力の集合体――あらゆる人間の負の感情の寄せ集めであることを示しているのだと思う。だからこそ、彼には〝真なる人〟の名が与えられた。

 呪霊は肉体を持たない。だから、肉体が先んじることなどありえない。呪霊を形作るのは人から漏れた呪力だ。呪力の源は人の(負の)感情であり、それはすなわち心を指す。呪霊は心――魂の代謝の末に生まれる、魂の排泄物とも言える。本来は体内にあったはずの、生理的嫌悪を催すものであり、人から切り離されて独り歩きする負の感情の廃棄物。だから夏油は呪霊の味を「吐瀉物を処理した雑巾」に喩えたのだろう(薬食同源よろしく、そういうものを取り込んでいるうちに精神が呪霊の方へ傾いていった可能性もありそう)。

 かつて、肉体は魂の牢獄だとプラトンは言った。天上から追放された魂は、肉体という牢獄に押し込められた。肉体の檻から解き放たれた魂とは、すなわち呪霊に他ならない(負の感情のみで成立するのは悪夢のようだ)。だから、呪霊こそが新たな人間という主張は、プラトンの思想に則ればわかりやすい話でもある。

 自然現象への畏れが呪いとなって形を得た漏瑚や花御は、ストレートにアミニズム的な〝神〟だ。人より後に生まれ、人の上に位置する存在。体系を体系たらしめるために要請される、意味の不在を否定する記号――そのアナログバージョンである〝神〟。
 人が呪いを生み出し、呪いは形を得て呪霊となり、呪霊は人の上に立とうとする。
(呪いが人に取って代わったら、呪いが新しい呪いを生むのかもしれない。その由来からして呪いは連鎖するはずだし。豚の信仰する神が豚の姿をしているなら、呪いの上位に来る〝神〟たる呪いは、はたしてどんな姿をしているのだろう)

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