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虎杖と伏黒の「手の届く範囲」について

※単行本13巻までの情報で書いている。思い立ったら加筆修正します
※アニメ派には一部ネタバレだよ!

虎杖も伏黒も、すべての人を救えるわけではないことを弁えている。ただ、その区切り方が違う。
虎杖は自分の手の届く範囲で命を選別しないで救おうとするのに対し、伏黒は更に命の価値に順位をつけて上位(自分が善人と定義した人)を救おうとする。

虎杖の「手の届く範囲」

「誰もかもを救うことはできない」のを最初から理解している主人公はとても珍しい気がする。もちろんこれはごく当たり前のことで、万能な人はいないし、現実は厳しい。救える人には限りがあり、その選択には「その人がどれだけ自分にとって重要か?」が関わってくる。

人間関係には序列(親密さの差)がある。
知り合いが死ぬのは怖い。寂しい。助けたい。家族や友達ならなおさら。でも、赤の他人の死はただの数字だ。
例えば医師や看護師、教師のような職業に就いている人だって、「結局は人間なんだから、私生活をなげうってまで自分の身を赤の他人に捧げるのはどうなんだ?」という問題提起と似ている。
呪術師は特段、崇高な職業ではなくて、ただ人を助ける特別な力があったから、その力を生かしているに過ぎない。
この考え方が作品の根底にあると思う。

虎杖の動機は序盤に示されている。

「宿儺を喰う」それは俺にしかできないんだって。死刑から逃げられたとして、この使命からも逃げたらさ、飯食って風呂入って漫画読んで、ふと気持ちが途切れた時、「ああ今宿儺のせいで人が死んでるかもな」って凹んで、「俺には関係ねえ」「俺のせいじゃねえ」って自分に言い聞かせるのか? そんなのゴメンだね。自分が死ぬ時のことは分からんけど、生き様で後悔はしたくない。

これには祖父の遺言が影響している。

オマエは強いから人を助けろ。手の届く範囲でいい。救える奴は救っとけ。迷っても感謝されなくても、とにかく助けてやれ。オマエは大勢に囲まれて死ね。俺みたいにはなるなよ。

虎杖は遺言を呪いと呼ぶけれど(あんまり関係ないんだけど、この前のスパークで出した本でこういう表現を使ったのでめっちゃ偶然!と思った)、その呪いを自ら望んで受け入れる。
虎杖は「寂しがり屋だから、大勢に囲まれて死にたい。そのために人を助ける」とも言うし、きっかけが祖父でもきちんと自分で選び取った道だ。
己の力の及ぶ範囲で人を「正しい死」に導くこと――「正しくない死」を回避すること。
自分が強者で、誰かを救う力を持っているから、何もしないではいられないのだと思う。
呪術師になる理由としては重すぎないくらいで、とても身近に感じる動機付けだ。世界を救うとか、呪霊によって苦しむ人間すべてを助けるだとか、大それた望みを持たない。自分が後悔したくないから、手の届く範囲で人を救うのだ。

元来、このような「救える人には限りがある」みたいなドライなことを言うのは、伏黒のような(主人公たりえない)クール系ポジションが担ってきたと思う。でも、お人好し主人公であるはずの虎杖も、現実の無情さを知っている、自分には限界があると知っている。
ジャンプの作品をすべて見てきたわけではないけれど、虎杖はジャンプの主人公の中ではかなり毛色の違いを感じる。

知ってた? 人ってマジで死ぬんだよ。だったら、せめて自分が知ってる人くらいは正しく死んでほしいって思うんだ。

だいたいにして、誰かを助ける理由として「生かすため」ではなくて、まっさきに「正しい死」を提示してくる主人公は初めて見た。
序盤での祖父の死によるものだけれど、「死」が――終わりが必ず来ることを虎杖は強く意識している。だから、自分の「生き様」すなわち「死ぬまでどう生きるか」に焦点を当てる。
それがとても新鮮に感じる。

たぶん今後、両親の話とかも少しずつ出てくるはずなので、そうなればもうちょっとこのへんを突き詰められるんだろうなと思います。虎杖の育った環境、まだブラックボックスなので。
(というか虎杖が主人公なのに、伏黒の方がかなり掘り下げられちゃってますね)

伏黒の「救う命の選択」

一方の伏黒は「スーパードライ」と形容されたように、虎杖より更に冷淡だ。

ただでさえ助ける気のない人間を、死体になってまで救う気は俺にはない。

伏黒は自分に救える人を救う。ただし、それは「善人」でなければならない。
善人とは何か?――それは伏黒の「良心」が定義する。
基準を自分で決めて自分の内に持ち続けるのは、とても辛いことだ。だから虎杖にも問い詰められる。

「オマエは大勢の人間を助け、正しい死に導くことに拘ってるな。だが自分が助けた人間が、将来人を殺したらどうする」
「じゃあなんで俺は助けたんだよ!」

伏黒は答えに窮し、返事ができなかった。
その後、虎杖は人間を「殺し」てしまう。でも、伏黒は虎杖を許す。自分の過去の発言が虎杖を否定してしまうから。
(虎杖と伏黒の、互いを思いやって不都合な真実を黙っていようとするのに結局お互い知っているから無駄な気遣いになるというこの構図、すごく好きです)

自分の発言が矛盾してしまうんだけど、でも伏黒は「私情」で虎杖を助けてしまっている。虎杖を「善人」と判断したのは伏黒の私情なのだ。
あとたぶん、悪人は救われなくていいと思っているから、他人を傷つけるだけで助けようのない人間を殺すのは「殺人」にカウントされない。
伏黒は、徹底的に自分にとっての「善人」だけを許す。

虎杖の方が、精神的にはもしかしたら楽かもしれない。救えない人は自分の力不足になるけど、それは仕方ないことだから。能力に限界があるのは厳然たる事実だから。まだ学生なのだし、最大限の努力をしたなら、誰も虎杖を責めはしない。(虎杖は自分で自分を責めるけど、七海とかが大人としてフォローしてくれるし。虎杖はどんなにポテンシャルがあっても学生だから自分だけで責任を負えなくて、大人がちゃんとしているところ、すごく安心します)
でも伏黒は、己の良心と呼ぶところの選択した責任を負わなければならない。選んで見捨てた責任を。

伏黒は父親に「選ばれなかった」から、人を選ぶことに抵抗がないのかもしれない。捨てられたせいで自分の価値を低く見積もっているから、津美紀に選ばれていたことにもなかなか気づかなかった。
伏黒は五条に「選ばれた」けど、だからこそ、それが間違いだと思っているのかもしれない。真に選ばれるべきは津美紀の方だと、心の底では思っている。選ばれたのは自分の血筋(禪院)であって、自分(伏黒)ではない。
自分(伏黒)を望んだのは津美紀だけだった。
だから、自分の将来を担保にして、津美紀の幸せを選択した。

誰かを呪う暇があったら、大切な人のことを考えていたいの、人を許せないのは悪いことじゃないよ。それも恵の優しさでしょう?

この津美紀の台詞を、伏黒は偽善と思って嫌っていた。実際、これはとても嘘くさいと思う。でも津美紀の真意はそうではない。

悪人が嫌いだ。更地みてえな想像力と感受性でいっちょ前に息をしやがる。
善人が苦手だ。そんな悪人を許してしまう。許すことを格調高くとらえてる。吐き気がする。
いつも笑って綺麗事を吐いて、俺の性根すら肯定する。そんな津美紀も俺が誰かを傷つけると本気で怒った。俺はそれにイラついていた。事なかれ主義の偽善だと思っていたから。
それも今は、その考えが間違いだって分かってる。俺が助ける人間を選ぶように、俺を選んで心配してくれてたんだろ。悪かったよ。ガキだったんだ。謝るからさ、さっさと起きろよ、バカ姉貴。

伏黒が「善人」の典型に置いた津美紀でさえ、気をかける人を選ぶのだ。
誰も彼もが選択を繰り返し、そうして生きている。人生は選択の連続で、それは何かを選び、何かを捨てる行為だ。

伏黒の言う「善人」の意味がこのシーンで変化する。善人は聖人君子ではなくて、日々をつつがなく生きている普通の人間、くらいの意味合いになる。呪霊がいなければ、何事もなく平和な日々を享受して、人の営みを送れるような。

伏黒は自分を「善人」だと思っていない。救うべき命を選択するからだ。もっと直接的に、時には命だって見捨てるようなレベルで。でも、善人だって選択することに気がついてしまった。
今後、もっとシビアな選択を迫られたらどうするか、とても見物ですね。

付け加えるなら、伏黒は確実に救える人しか救わないのかもしれない。

君は自他を過小評価した材料でしか組み立てができない、少し未来の強くなった自分を想像できない。

上記の台詞を五条に指摘されてキレ顔を見せてくるんだけど、これは痛い事実かなと思う。要は、伏黒は諦めがよすぎる。
自分の力量を低く見積もっているから、手が届かないと思ったら諦めてしまう。虎杖なら、伸ばした手をもっと伸ばそうと努力する。でも、伏黒なら届かないと判断してそこでやめてしまう。
これも突き詰めれば、捨てられたせいなのかもしれないな、と思う。

実際には、最後の最後で、伏黒恵は伏黒甚爾に捨てられたわけではない。甚爾は自分で恵を育てる気がなくて虐待(ネグレクト)しているのは事実なんだけれど、親としての愛情がゼロというわけでもない。彼に取れる選択の中では禪院に預けるのが最良と判断されたってだけで。親として屑なのは疑いようがないけど。甚爾の小指の爪先ほどの情、とてもいいですね。

甚爾が誰にも真意を語らなかったから、恵は知る機会がない。それはそれでいいと思いますけど、伏黒が自分に自信を持つためには、やがて明かされるべきな気もします。

人間関係の順位付けについて

虎杖も伏黒も、そして釘崎も(というか釘崎がいちばんだけど)、程度の差こそあれ、「人助け」に類似した職に就くにしてはとてもドライだと思う。
釘崎があけすけに言う場面なんかが良い例(今のところ、ここが作中で一二を争うレベルで好きです)。

私はぶっちゃけなんともない。術師やってりゃこういうこともあんでしょ。伏黒じゃないけどさ、結局助けられる人間なんて、限りにがあんのよ。私の……人生の席……っていうか、そこに座ってない人間に、私の心をどうこうされたくないのよね。……冷たい? ま、アンタみたいに、自分で椅子持ってきて座ってる奴もいるけどね。

なんせ釘崎は「田舎が嫌で東京に住みたかったから」という理由で呪術高専に入学している。三人組の中では動機付けがもっとも私的だ。
これに返す虎杖も、そのことは理解している。

「俺は自分が……釘崎が助かって……生きてて嬉しい。ホッとしてる。それでも、俺が殺した命の中に、涙はあったんだなって。……それだけ」
「……そっか。じゃあ、共犯ね、私達」

虎杖も選択した。釘崎の方がずっと大事だから。そう順位付けしたことを悔やまない。でも、ほんの少しだけ後味の悪さを覚えている。
「全員助ける」なんて言わないけれど。それが不可能と知っているもの分かりのよさ。

たかが十五歳。されど十五歳だ。自分の置かれた環境もある程度自覚しているだろう。
逃れることのできない生まれ、変えることのできない環境、周囲の人間。虎杖には祖父がいたけれど両親はおらず、伏黒にいたっては義理の姉しかいない(あと伏黒はともかく、虎杖にも長く付き合いのある親しい友達がいないみたいなのが驚き。内なる孤独が知らず知らず周囲を遠ざけていたのかも)。
無限の可能性なんかなくて、自分には限界があることを知っている。だから、大事な人から大事にする。それは悪いことではないと理解している。

「あの子が死んで悲しむのは私だけですから」といって、少年院に収容されていた少年の母親は泣く。痛切な台詞だ。誰かにとって大切な人は、誰かにとって赤の他人でしかない。それも、少年院とくれば恨まれるのが当然の。
それでも、母親にとって息子は大事なのだ。車ではねた女児の親に恨まれているのを知っていて、伏黒には更生の余地がないと判断されて、それでも生きていてほしいと思うのだ。
かなり最初の方にこのくだりを入れるのは思い切りがいい。

この作品は、暗黙の了解として伏せられがちな、人間関係の順位付けを強烈に突きつけてくるな、と思う。

夏油の救う範囲について

そういうドライさが持てなかったのが夏油なのかな、と思う。
夏油は線引きが下手くそきわまりない。救うべき非呪術師を一律に見て、すべてを救おうとする。だから、その中に悪人がいることに気づいてしまって、夏油は行き詰まる(この話は以下参照)。

書いていて気づいたことだけれど、夏油に対抗できる理論を持っているのは五条でも虎杖でもなくて、伏黒ではないかと思う。
伏黒なら、夏油が「本当に守る価値があるのか?」と感じた人間を救わない。それは伏黒にとって善人ではないからだ。

ただ、やっぱり、伏黒の線引きも自分の中にしか基準がない。それだと他人といずれ衝突するし(現に虎杖と衝突したし)、自分の経験が積み上がるにつれて揺らいでいくだろう。他人に「どうして見捨てたのか」と詰られる場面も来るかもしれない。
(なんだかんだで、まだあからさまに見捨てた人はいないようだけど)

渋谷ハロウィン編が終わったら、またこのへんを突き詰めてほしいですね。

大幅加筆修正版はこちら。


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