見出し画像

夏油傑の差別感情の話

※単行本13巻までの情報で書いている自分用メモ
※割とデリケートな話題を含みます。差別を肯定する意図はありません。個人の感想です。書いている人間はそういう方向の研究をしていたので、そういう方向に偏っているのはご容赦ください。

『呪術廻戦』はけっこう丁寧に時代を描写しているな、と感じる瞬間がある。
わかりやすい例だと、スマホとガラケー。言うまでもないことだけど、小道具としてはとても大切な要素だ。
(夏油がスライド式ケータイを持っていたことにとてつもない懐かしさを覚えました。友人が持ってましたね。文化祭の準備中、トラックの荷台から飛び降りた際、買ったばかりのケータイをアスファルトに落として画面を割ってました)
その時代感覚のギャップは、夏油の差別感情にも反映されているかもしれないな、と感じている。

最初に見た時から、虎杖も伏黒も釘崎も、ずいぶんと大人というか、精神面が成熟していると感じていた。
彼らはたぶん、夏油みたいにはならない。伏黒の善人の定義なんかはちょっと危ういところがあるんだけど、夏油みたいに極端な道には走らないだろう(なにより虎杖がいるというのもあるけど。虎杖は伏黒をぶん殴ってでも止められるし、逆もまたしかり)。

虎杖たちと五条たちの年齢差は13歳ほど。ちょうど一回りくらい年が離れている。五条たちの時代だって別に昔というわけではないけど、この10年ちょっとの間に、ものの考え方みたいなのはすさまじい勢いで更新されていったように思う(もちろん、わたしは五条たちの方が年が近いです。乙骨の学生証が2001年生まれなのにびっくりした)。
そのひとつが、差別感情をめぐる考え方の変遷なのではないかと思う。
(ヒロインの扱い方というか、ジェンダー観も非常に大きな変化を見せているんだけど、これはこれで別口で語られるべき大きな話題ですね)

現実の差別について

差別は「いけないこと」だった。もちろん今でも「いけないこと」なんだけど、現在はもう一歩進んで、差別する感情自体は否定されないようになったと思う。言い換えるなら、差別する感情を抱くことを肯定できるようになったということ。
(差別の話は、グローバリズムとか多様性とか寛容さと切っても切り離せない。「みんな違ってみんないい」のはその通りなんだけど、綺麗事を並び立てた裏で軋轢を生んでしまった今では、それだけでは済まない。時代は変化し続けて、世界はいっそう互いに接近し、綿密に繋がっている。うわべだけきれいに着飾ったグローバリズムは、ここ数年でいろいろと行き詰まりを見せた。寛容/不寛容をめぐる考え方も、ずいぶんと変わったと思う。)

差別感情を持つことを肯定していい雰囲気を、十数年前にはあんまり感じなかったように思う。
互いに違うことが当たり前で、それを受け入れない権利もある。差別は誰でも持ちうる感情で、それ自体は悪いことでない。それを表出させるのがまずいのであって(法の下の平等は大前提です)。己に差別感情があることをまず認めてから差別を減らそうとする、あるいは棲み分けを図るという方向に進んでいると思う。
でも、夏油にとっては、それがとても難しかったのだろう。

夏油の差別感情について

作中での差別とは、術師と非術師のこと。
大多数の人には見えないものが見えて、悪しきものを祓う力を持つ術師。そうではない、数多の人間。
術式と強い呪力を持ち、呪いを生み出すことのない術師。呪いを生み出すくせに、自力で対処することもできない非術師。術師は身も知らぬ非術師のために命を削る。助けられた非術師は生きている限り呪いを生み出す。その繰り返しに夏油は疲弊してゆく。
非術師を「猿」と蔑むのは差別以外の何物でもない。劣っている非術師を間引くという手法は、優生思想ととても似ている。
実際、御三家は「平家にあらずんば人にあらず」よろしく「術師にあらずんば人にあらず」を平然と行う。

生得的な術式には遺伝性がある。御三家には、六眼や無下限術式、十種影法術に赤血操術がある。血統に伴う術式は、その血筋の子どもの身体に生まれながらに刻まれている。術師同士の子どもは、非術師同士の子どもよりも術師の素質を持っている可能性が高い。
だから、非術師を殺して術師のみが生きるようになれば、術師の割合も高くなるという算段なのだろう。

もちろん、実際に実行してみたところで成功するとは限らない。御三家であろうとも、甚爾や真希のように呪力のない子が生まれる可能性は決して低くない。
(もしかして甚爾や真希みたいな逆方向の天与呪縛にも遺伝性があるのでは?とちょっと疑っている)

夏油の目指す世界では術師のみが生存を許され、そうでない子どもは間引かれなければならない。
まず呪術師の人口的に無理がありそうだし、一定の割合で生まれる非術師を殺し続けるなら、人口を増やすのも難しい。そんな少人数で、社会を維持するのは困難だ。その先に待っているのは、緩慢な死だろう。

でも、夏油はそういう将来を想像できなかったのか、それとも社会の行く末なんて本当はどうでもいいのか、穏やかに滅びてしまえばいいと思っているのか、緩やかな自殺を図ろうとしている。
それほどまでに、夏油は非術師の存在を認めることができなくなっている。あるいは、非術師のせいで術師が消耗していくという目先に囚われているのか。
夏油は、差別感情を抱く自分と「差別はいけないこと」だと律する自分との折り合いをつけることができなかった。だから、苦悩の末に大量殺人を犯し、離反した。

「呪術は非術師を守るためにあると考えていました。でも最近私の中で非術師の……価値のようなものが揺らいでいます。弱者故の尊さ、弱者故の醜さ、その分別と受容ができなくなってしまっている。非術師を見下す自分、それを否定する自分。術師というマラソンゲーム、その果ての映像があまりに曖昧で、何が本音か分からない」
「どちらも本音じゃないよ、まだその段階じゃない。非術師を見下す君、それを否定する君。これらはただの思考された可能性だ。どちらを本音にするのかは、君がこれから選択するんだよ」

夏油が選んだのは、非術師を見下す自分。だから、特に嫌っていたわけではない両親をまず手に掛けた。本当に嫌っていたのは、呪いを振りまく非術師だったはずだ(伏黒が定義するところの「悪人」)。
ところが、ごく普通に生活しているありふれた凡人さえも、同じくくりに入れてしまった。
呪いが人の負の感情の蓄積ならば、「負の感情を抱かない非術師はいないから、皆殺しにしよう」という結論も間違いではないだろう。ただ、やはり、あまりにも選択が極端だと思う。
やっぱり、自分が聖人君子ではないことを受け入れるのに失敗してしまったんじゃないかと思う。矛盾を併せ持つ自分を許容できなかった。
思春期特有の潔癖さもあっただろうし、夏油が高専の学生だった頃、まだそういう考え方が今ほどできていなかったような気もする。

夏油は自分の差別感情をなかなか肯定できなかった。非術師を「猿」と呼ぶこと――差別する自分を認められなかった。だから、差別する自分を肯定するためには、社会を外れる必要があった(強者/弱者の区分自体は差別ではないと思います。事実なので)。
まるきり「良い子」みたいな振る舞いを己に課していた夏油は、限界が来てすべてをなげうつ。
望んで社会から切り離された夏油は、価値観をアップデートさせることなく、信者に囲まれて己の思想を先鋭化させていく。
己を強者の立場に据えた夏油は、絶対に誰かに救われるわけにはいかない。救われるのは弱者だからだ。

一方で、虎杖たちにはそういう葛藤は、比較的薄い。ないわけではないけど、夏油に比すれば極端ではない。
虎杖は手の届く範囲全員を助けると決めている。伏黒は助ける人を選ぶ。釘崎はそもそも人を助けるために術師になるわけではない。三人とも、自分たちが崇高な使命を持った特別な人間であるとは微塵も思わない。そういう考え方は、すごく成熟しているな、と感じる。

人間関係の順位付けの話は上記の記事で既にしたが、虎杖たちはごく自然にそうできる。親しい人とそうではない人を区切ることができる。それは悪いことではないと理解している(差別と区別は、人間に優先順位をつけるという意味では似ていると思います)。

でも、夏油にはできなかった。最も親しい五条は最初から箍が外れているし(五条は多分に、自分以外のすべてが塵芥に見えている節があると思う。その貴重な例外の一人が夏油だった)。
傍若無人が服を着て歩いているどころか人型の災害みたいな五条をたしなめつつ、夏油は己に言い聞かせるように「非術師を守らなければならない」と唱えていた。むなしい努力が実を結ぶことはなかったけれど。
(わたしの五条と夏油についての解釈は以下参照)

夏油は五条に嫉妬していないと思うけど、もしかしたら羨んでいたかもしれない。あらゆることを成し得る力を持つにもかかわらず、自分にしか使わない五条に、少しだけ羨望と腹立たしさがあったかも。
でも、夏油の理想を成し遂げたとしても、残るのは別の地獄なんですけどね。社会は非術師なしに存続できない。待っているのは、緩やかな滅びだ。

夏油があんな風に振り切れてしまったのは、幼さにも似た頑迷さと潔癖さを持っていただけではなくて、ただ、そういう時代背景の影響もあったんじゃないか、とふと頭をよぎったのです。

五条側の話はこちら。大幅加筆修正版が1月24日エアブーで出ます。BOOTHのみの取り扱いです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?