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肉体と魂と心の話、人の呪いたる「真人」を添えて

※単行本13巻までの情報に基づきます。
※SF的な話題と語用論(言語学)の話題が混じります。書いている人間は象牙の塔で言語学やってました。

肉体が先か、魂が先か。心は幻想か。

「人が人を憎み恐れた腹から産まれた呪い」真人は、魂が肉体より先にあると定義し、心を魂の代謝――まやかしと呼ぶ。
はたして、本当に魂は肉体に先んじる代物なのか。心は本当にまやかしなのか。

肉体と魂、どちらが先か

「肉体に魂が宿るのかな? それとも魂に体が肉付けされているのかな?」
「前者」
「不正解。答えは後者。いつだって魂は肉体の先にある。肉体の形は魂の形に引っぱられる」

七海は肉体が先と言い、真人は魂が先だと言う。
結論から言えば、この定義は人間と呪霊で異なっているのではないかと思う。
人間は肉体が先で、呪霊は魂が先。

真人は人の呪いそのものだ。
「人が人を憎み恐れた腹から産まれた呪い」というのは、人を呪いたいと思った負の感情そのものが凝って形を為した呪いということだろう。
フランケンシュタインの怪物じみたつぎはぎの容貌は、人から漏出した呪力の集合体――あらゆる人間の負の感情の寄せ集めであることを示しているのだと思う。

呪霊は肉体を持たない。だから、肉体が先んじることなどありえない。
呪霊を形作るのは人から漏れた呪力。呪力の源は人の(負の)感情であり、それはすなわち心を指す。
呪霊は心――魂の代謝の末に生まれる、魂の排泄物とも言えるだろう。本来は体内にあったはずの、生理的嫌悪を催すもの、人から切り離されて独り歩きする負の感情の廃棄物。
だから夏油は呪霊の味を「吐瀉物を処理した雑巾」に喩えたのだろう(そういうのを取り込んでいるうちに精神が呪霊の方へ傾いていった可能性もありそうだなと思います)。

かつて、肉体は魂の牢獄だとプラトンは言った。天上から追放された魂は、肉体という牢獄に押し込められた。肉体の檻から解き放たれた魂とは、すなわち呪霊に他ならない(負の感情のみで成立するのは悪夢のようだ)。
だから、呪霊こそが新たな人間という主張は、プラトンの思想に則ればわかりやすい話でもある。

自然現象への畏れが呪いとなって形を得た漏瑚や花御は、ストレートにアミニズム的な「神」だ。人より後に生まれ、人の上に位置する存在。体系を体系たらしめるために要請される、意味の不在を否定する記号。そのアナログバージョンである「神」。
人が呪いを生み出し、呪いは形を得て呪霊となり、呪霊は人の上に立とうとする。
(呪いが人に取って代わったら、呪いが新しい呪いを生むのかもしれない。その由来からして呪いは連鎖するはずだし。豚の信仰する神が豚の姿をしているなら、呪いの上位に来る「神」たる呪いは、はたしてどんな姿をしているだろうか)

真人は「肉体と違って魂は何度でも殺せる」と言う。
肉体は唯一で替えがきかないが、魂は目に見えないから変幻自在だ。真人がイメージで姿を変えられるように、魂は定型ではない。その点で言えば、たしかに肉体は牢獄だろう。
ありとあらゆるものへ変化できる魂。幾度殺しても蘇る魂。肉体よりよほど自由だ。

でも、魂が肉体より上位の存在であるとも言い切れない。
人間は呪霊と違って、肉体が先になる。まずもって、肉体がなければ人間とは呼ばれない。肉体を持たない人間は存在しない。
生物の本能は、肉体を長らえさせること。生きるために生き、命を、遺伝子を次世代へ引き継ぐために生きる。

魂は見えないが、肉体は目に見える。肉体は呪力を消費せず、この世に確たる存在として刻まれている。現に、受肉した呪霊は存在をより強固なものとする。定型ではない魂は自由であるが、それと引き換えに不安定だからだ。
魂が見えるという真人は、その特別な力でもって人より上位に立てる。
人間を排して新たな人間になろうとするから、魂が先だと主張しているという側面もあるのではないかと思う。

もちろん人間にも魂が必要だ。両者は不可分な関係にある。呪力を生み出すのは人の心、魂であるが、術式が刻まれているのは肉体。両方が揃って初めて、呪術を行使できる。ただ、前提となるのは肉体の方かもしれない。
呪術師の扱う術式は、生得的に決まっている上に遺伝性が見られる。変えることはできない。背が高いだとか髪が黒いだとか、そういう遺伝形質(肉体的特徴)と並列に扱われている。
身体を流れる熱き血潮、そっけない言い方をすれば遺伝子が、すべてを決定する。

甚爾の肉体は圧倒的な強さを誇り、「魂さえ上書きする、天与の肉体」とまで称された。呪力が完全にゼロの代わりに、およそ人体として考えられる限りで最高のパフォーマンスを発揮することができた。
その結果、オガミ婆(たぶんイタコですよねあれ、下ろすのは魂じゃないけど)によって降ろされた肉体は、依り代の魂を乗っ取ってしまった。ここで言う魂とは、たぶん人格や記憶と紐付いた存在のこと。甚爾を降ろしたオガミ婆は、甚爾が命令に逆らえることに驚愕していた。おそらくだけど、甚爾の強靱すぎる肉体は、魂の一部を連鎖的に下ろしてしまったのではないかと思う。

この、肉体と魂の不可分さは夏油(偽物)にも表れている。

「君は、魂は肉体の先に在ると述べたが、やはり肉体は魂であり、魂は肉体なんだよ。でなければこの現象にも、入れ替え後の私の脳に肉体の記憶が流れてくるのにも説明がつかない」
「それって一貫してないといけないこと? 俺と夏油の術式では世界が違うんじゃない?」

夏油の肉体の記憶に身体を勝手に動かされてしまった偽夏油は、肉体と魂は同じだと言う。これに対して、真人はあっさりと夏油の言葉を認める。
呪霊と人間が違う存在である自覚が強くあるのだと思う。
呪力を持たない人間は存在しうるが、呪力を持たない呪霊は存在しえない。それが呪霊の定義だから。
だから、真人と七海の問答はいつまでも平行線だ。そもそもの前提が違う。

呪いが新たな人間となった後、もし受肉してしまったら、結局は人間と同じことなのだと思う。不自由な肉体と引き換えの定型と安定性。
真人の自由な身体は肉体を持たないがゆえの産物であり、彼は受肉できないのではないだろうか。

(呪霊は人を捕食するけど、それを栄養素や存在の補強に使っているのか、本編の描写からは判然としない。人の呪い、信仰、畏怖がなくなったとしても、ひとたび誕生した呪霊は消えないのか。吸血鬼のジレンマみたいに、人間が滅びると呪霊も存続できないとかそういう話がいつか来たりするんだろうか)


心はまやかしか

「魂」はある。でも、それは「心」じゃない。
喜怒哀楽は全て魂の代謝によるものだ。心と呼ぶにはあまりに機械的だよ。人は目に見えないモノを特別に考えすぎる。見える俺にとって、魂は肉体と同じで何も特別じゃない。ただそこに在るだけだ。分かる? 命に価値や重さなんてないんだよ。天地にとっての水の様に、命もただ廻るだけだ。それは俺も君も同じ。無意味で無価値。だからそこ何をしてもいい。どう生きようと自由なんだ。「無関心」という理想に囚われてはいけないよ。生き様に一貫性なんて必要ない。お腹が減ったら食べるように、憎いなら殺せばいい。俺は順平の全てを肯定するよ。

上記の真人の台詞は、まさしく悪魔の囁きだ。無条件に肯定された順平は真人に心酔する。

「心がまやかし」というのは、外的要因(ロボトミー手術や向精神薬など)によってコントロールできる心の不確かさの話なのだと思う。
外科手術によって人格は変貌する。向精神薬を飲めば、ある程度、心を管理することができる。
真人の「目に見えないものを特別に考えすぎる」という言葉は、つまるところ、外的要因によってコントロールできる心とは、それほどまでに特別で不可侵なものではないという意味なのだと思う。

再びプラトンを引用すると、「肉体は魂の牢獄」と言われたものの、最近のSFだとむしろ魂(や精神や心に類するもの)の方が自由ではないような流れをよく見る気がする。
例えば伊藤計劃『ハーモニー』や『PSYCHO-PASS』みたいに、心、精神、意識といった、肉体と対を為す「見えないもの」は容易くコントロールされるようになった。心さえも自由ではない。
医療の発達と飽食の時代の到来によって、かつて魂を縛りつけていた肉体の不自由さが大きく減少したせいでもあるし、科学の発達によって魂/心の神秘性が暴かれたからでもある。

心は見えないから特別だった。だが、現実においてもはや心は「見えないもの」ではなくなりつつある。
かつて心は胸(心臓)にあったが、今や脳の見せる化学的反応まで分解されてしまった。シナプスと電気信号と神経伝達物質の集合。心はある程度まで計測できるようになった。
『PSYCHO-PASS』風に言うならば、発達した科学技術が心を数値化し、魂という聖域を暴いた。現実はそこまで達していないけれど、十分にその萌芽を見せている。
『ハーモニー』風に言うならば、ホモサピエンスは肉体を生き延びさせるために心を後付けしたもの。だから機械的と形容されても不思議ではない。

古来より「見えない」ものは恐怖を呼び、だから人は見えないものに名を付けて形を与えた。名付けられたものはこの世にしかと存在するものとなる。(そういう人々の恐怖が名を得て形作ったものが「仮想怨霊」なのだろう)
ガス灯の光が闇を打ち払い、人は神秘を暴いた。ヒトゲノムは解読されて久しく、心もまた例外ではない。

「見えないものを特別に考えすぎる」の裏を返せば、「見えるものは特別ではない」ということ。
ただの人間には魂は見えないから、それを特別なものと考えがちだが、それが見えて触れられる真人には見えないがゆえの神秘性などなく、また神聖にして不可侵なものでもない。
でも、まやかしを本物と信じているうちは、幻も本物たりえる。判別できない人間にとっては同じことだ。人と同じ視界を共有しない真人には、そう見えないけれど。

ちょっと話が逸れるけど、「見える者にとっては特別ではない」は五条の六眼にそっくり跳ね返る。五条はあまりにも眼がよすぎるせいで全てを見通せると錯覚してしまい、手痛いしっぺ返しをくらった。よく見えすぎる六眼が何でも見せてくれるせいで何でも見えたつもりでいて、本当は心なんて見えなかった。
人と違うものが見えるということは、世界の認識が食い違っているということ。誰とも共有しない孤独に生きるということ。呪術師は多かれ少なかれ、そのような経験をしているけれど、世界に祝福された(あるいは呪われた)六眼は格別だろう。
(六眼に判別できるのは肉体に刻まれた術式と、同じく肉体に紐づく呪力なのは確定しているが、夏油の中身が違うことを見抜いたのは「親友だから」とかいうふわふわした理由ではなく、六眼には魂の片鱗が見えるからではないかと思っている)


魂の生理的欲求

「心は魂の代謝」という真人の台詞に従えば、肉体の生理的欲求に相当するのが、魂にとっての心なのかもしれない。
心とは喜怒哀楽、すなわち「情」だ。理性(あるいは知性)によって律せられた、もしくは理性の箍を嵌められた、原始的な感情。生存のために必要な、機械的な反応。

大脳新皮質(だいのうしんひしつ、英: Cerebral neocortex, isocortex)とは、大脳の部位のうち、表面を占める皮質構造のうち進化的に新しい部分である。合理的で分析的な思考や、言語機能をつかさどる。いわゆる下等生物では小さく、高等生物は大きい傾向がある。人類では、中脳、間脳などを覆うほどの大きさを占めている。 厚さおよそ2mmの皮質状組織で、灰白色を呈し、6層構造をもつ。
「大脳新皮質」Wikipedia
大脳辺縁系(だいのうへんえんけい、英: limbic system)は、大脳の奥深くに存在する尾状核、被殻からなる大脳基底核の外側を取り巻くようにある。人間の脳で情動の表出、意欲、そして記憶や自律神経活動に関与している複数の構造物の総称である。生命維持や本能行動、情動行動に関与する。
「大脳辺縁系」Wikipedia

理性の宿る大脳新皮質は、その名の通り、脳の中では新しく発達した部分。一方で、感情を司る大脳辺縁系は大脳新皮質の内側にある。より原始的なのは大脳辺縁系の方、すなわち感情だ。
(Sense and Sensibilityが『分別と多感』だったり『知性と感性』だったりするんだけど、英語的には語源的に同じ「心」なんだと思います。理性も感情も、目には見えない内面の話という意味では同じ土俵にあります。どちらも必要で、社会性の生き物として欠けてはならないので)

順平と「好き」と「無関心」の話をした折、真人は「心」のままに自由に振る舞うことを肯定した。理性などという言い訳を離れ、感情の赴くままに行動すればいいと言う。生理的欲求は自然なことだから。

皆言葉遊びが好きなのさ。なぜなら人間は、言い訳をしないと生きていけないからね。

感情は古く、理性は新しい。
言い訳を求めるのは人の理性だ。人を獣から脱し、人たらしめるための首輪、檻。感情という生理的欲求に箍を嵌めて、高度に成熟した社会を営ませる。
人は心のままには振る舞えない。それは獣のすることだから。

呪いは原始的な衝動だ。ゆえに呪霊はシンプルだ。
言い訳とは、つまりは後付けの理由。「心」を否定する順平も、自分の「心」を――感情を納得させるための言い訳を必要とした。とうとう理性を手放すことはできなかった。

人に心なんてない。その考えに救われた。力を与えてもらった。でも僕が人を殺すことであの魂が穢れてしまうなら、僕に人は殺せない。
霊長ぶっている人間の感情……心は! 全て魂の代謝! まやかしだ! まやかしで作ったルールで僕を縛るな。奪える命を奪うことを止める権利は誰にもない

対する虎杖は「誰に言い訳してんだよ」と、いっそ冷ややかなほどだ。

順平が何言ってんだかひとっつも分かんねえ。それらしい理屈をこねたってオマエはただ、自分が正しいって思いたいだけだろ。

順平は心のままに振る舞うことができなかった。社会的な正しさから逃れられなかった。だから自分が正しいと信じられず、虎杖を説得すると見せかけて、自分に対して「言い訳」を重ねた。捨てきれなかった理性が彼の「心」を律する。自分に言い聞かせるように、自分の正しさを肯定してもらいたがる。
(このシーン、自分の信じたい「正しさ」が虎杖と違うことを認識していたのもあるのではないかと思う。価値観は一人ずつ違う。順平にとっての正しさは虎杖にとっての正しさではない。正しさは人の数だけある。ここ何年かで、そういう価値観の世の中になったとも言える。絶対的な価値観そのものが独善/悪として扱われるようになった)

人に心なんてない。ないんだよ! そうでなきゃ……そうでなきゃ! 母さんも僕も、人の心に呪われたって言うのか! そんなの、あんまりじゃないか……

たぶん、順平は「心」を何か素晴らしいものと思っていたのだろう。
「心」は人を好きになる一方で、人を呪う。美しさと醜さ(あるいは清濁と呼ぶべきか?)、どちらか片方ではなくて、両方を併せ持っている。

「人の心を持たない」という表現では、心は「情」、とりわけプラス方面の情を指す。順平が否定したがっていたのは、そういう側面の「心」だったのだと思う。心があるのに、こんなに非道い仕打ちをするなんて――っていう絶望。
だが、情はたやすく反転する。それもまた情だ。きれいなものだけを持つだなんて、ありえない。でなければ、呪霊はこの世に存在しない。
剥き出しの原始的な感情は刃に似て、触れる者を容赦なく傷つける。(だからこそ、発達した言語は婉曲表現をたくさん持つのだ)

繰り返し書いていることだが、誰かを愛するということは、誰かを愛さないということだ。人間関係には明確に順序/序列が存在する。それは決して悪いことではない。
だけど、今まさに虐げられている順平には酷な話だ。彼は彼をいじめるクラスメイトにはきわめて低い順位を与えられている。それをまざまざと見せられ、自尊心をがりがりと削られて、精神的には息絶える寸前だ。
「心」が魂の代謝で生理的欲求に過ぎないのなら、何の意味もないのなら、自分の価値の低さを肯定しなくてもいい、というのもあるのかもしれない。すべては無意味なので。それを自分に言い訳している時点で、自分でも信じ切れていないのだけれど。

こういう話を語用論でも扱っている(Brown &Levinsonのポライトネス理論)。人はpositive faceとnegative faceの二つの「顔/face」を持つ。positive faceは褒められたい欲求、人と関わりたい欲求。negative faceは干渉されたくないという欲求。
発する言葉はすべてnegative faceを脅かすface threatening act(FTA)となり、相手に大なり小なり干渉する。コミュニケーションではFTAの度合いを最低限にするためにさまざまなストラテジー(直訳で戦術。言語学での用語です)を駆使する。
無関心/無干渉だけが人を傷つけないが、それはコミュニケーションの途絶えた世界でもある。ヤマアラシのジレンマに似て、人は人を傷つけずにはいられない。それでも、寄り添うことをやめない。一人では生きていけないので。

順平が理想とした世界は、きっと、平和など通り越してとても平坦だ。


「好き」と「愛する」と「無関心」について

悪意をもって人と関わることが、関わらないより正しいなんてあり得ない。
「無関心」こそ人間の行き着くべき美徳です。

この世に絶望している順平は無関心を望む。好きだとか嫌いだとか、そういった感情が死んだなら、悪意もまた存在しない。「心」の死に絶えた世界には、平和などという言葉すら生ぬるい。

感情がなければ呪霊は生まれない。意識を消去した『ハーモニー』の世界が完璧な調和を保つように。
夏油は呪霊の根絶方法として非術師を皆殺しにすることを選んだが、人間の感情の消去でも望んだ世界は成し得る。むしろ、その方がよほど平和な世界だろう。幸せ/不幸せという概念すら死んだ世界だけど。
『素晴らしい新世界』のような、ディストピアを認識できる人がいなければ、そこはユートピアと何も変わらない。対比があってこそ、幸/不幸の区別は成立するからだ。
夏油がその手段を取らなかったのは、無意識にでも心を持たない人は人ではないと思っていたからかもしれない。

「好きの反対は無関心」という話が出てくるが、元は「好き」ではなくて「愛する」だった。日本語に持ち込まれたら言葉が入れ替わってしまい、誤用が生まれた。
日本語では「愛する」の使用頻度は低く、「好き」の方が圧倒的に高い。「好き」と「嫌い」が対として扱われるように、「好き」は形容詞的に用いられ、状態を指す言葉だ(「い」で終わらないので形容詞ではない。動詞「好く」と由来を同じくする名詞もしくは形容動詞)。「愛する」は動詞、動作を指す言葉。そもそも品詞も異なり、互換性はない。
ないはずなのに、頻繁に取り替えられるのは、「好意」――とりわけ恋愛方面で――を示す言葉として近しいからなのだろう。
(この入れ替わりは言語学の授業でも扱われたテーマなので、けっこう難しい話でもある。その時は主題ではなかったせいもあって、結論は出なかった)

どちらかと言えば、「無関心」の反対は「執着」なのだと思う。プラス方向の執着が「愛」だとか「好き」だとかで、マイナス方面での執着が「嫌い」。
マイナス方面の執着をきれいさっぱり消すということは、プラス方面の執着も消えるということ。順平にとってはマイナス方面が大きすぎて、いっそすべて消えた方がまし、ということだろう。

そのあたりが実は、順平と真人――人間と呪霊で考えがすれ違っていると思う。
喜怒哀楽――感情の死に絶えた世界で、「心」が動かない世界で、呪霊は生まれない。人の呪いたる真人はその存在理由を失う。あるいは、過去の遺物と成り果てる。
心は魂の代謝にすぎないとは言うものの、それはすなわち、魂が生きているという証拠だ。死んでいるものは代謝しない。

肉体というハードを動かすためのソフトである魂、魂の中で走るプログラムたる心。
呪霊には、ハードがそもそも備わっていない。高度な知性を見せ、対話が成立したところで、結局は異なる存在だ。偽夏油(人間)と真人の世界が違うように。真人と問答しても、永遠に答えは出ない。そもそもの前提がすれ違っているから。

「順平って、君が馬鹿にしている人間のその次くらいには馬鹿だから」と真人に嘲笑されたように、似て非なる者のうわべだけを理解したつもりの順平は、身をもって代償を支払わされた。
愚かさ自体は罪ではないけれど、罪を犯したなら罰を受けなければならない。
「逆罰」とはそういう意味だったのだろう。自分を虐げたクラスメイトへ罰を下すつもりでいて、その実、順平が受けた罰。大海を知らずに狭い水槽で泳ぐ幼魚の、大それた望みの報い。
弱者と強者、虐げる者と虐げられた者は容易く立場を入れ替えてしまう。ずっと被害者でいることはできない。

虎杖が順平を殺す前に順平が死んだのは、作者の「人の心」による慈悲みたいなものだったのだと思っている。だって、初めて確固たる意思を持って手に掛ける人間が友人だなんて、あんまりじゃないですか。
それがせめてもの救いで、「正しい死」をもたらすためなのだとしても。虎杖がどこかイカれた奴なのだとしても。虎杖にも人の心があるのだから。


何が何でもファンブックが出る前に本を出すつもりなので、たぶん1月のエアブーでnoteの記事5本を大幅改稿して出します。

1/24追記
7000字ほど加筆しました。BOOTHで通販しています。


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