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日車寛見と夏油傑の話

※単行本19巻までの情報で書いています。
※個人の感想です。

日車寛見と夏油傑は、崇高な目的意識を持ちながらも、救うべき人の醜さに直面して絶望したという共通点がある。
夏油が救うべき弱者の醜悪さに耐えかねて、自らの職務に疑問を抱いた結果、高専を出奔したのは既にたっぷり語られたところだが、弁護士であった日車も依頼人に逆恨みされて絶望する点は夏油とよく似ている。
しかし、二人の選んだ結末は違っていた。

弱者救済とその苦悩

弱者は「可哀想」な存在だが、同時に「可愛い」とは限らない。夏油はまさしくそこで苦しむことになった。
弱く守ってやらねばならない存在は、守ってやりたくなるほどの「可愛さ」があるとは限らない。むしろ、可愛くないからこそ、弱く救ってやらねばならないこともある。
何故なら、可愛ければすぐに救いの手が差し伸べられるからだ。救われずにいるのなら、それは救ってあげたいと思えるほどの可愛げがないからだ。
その点は、日車もよく理解していた。

人は皆、弱く醜い。だが、あの時は、少なくともあの時までは、他の生物にはないその穢れこそ、尊ぶべきだと思っていたんだ!

以前に担当した飲酒運転の事件で、日車は依頼人から嘘つきと詰られる。関係者に口裏を合わせられたせいで、依頼人の有罪が確定し、執行猶予も取れなかったからだ。
この時、日車は「なんとか執行猶予だけはつける」と言い、決して「無罪にしてやる」とは言わなかった。だが、依頼人は「無罪にしてくれるって言ったのに」と約束もしていないことを理由に日車を逆恨みする。
この時点で十分に精神的に辛い出来事だが、日車はまだ折れなかった(その精神力の強さは賞賛に値するだろう)。

「弱者救済なんて……そりゃ立派だけどさ。裁判所と検察の理解もなしに弁護士だけじゃ限界があるでしょ。依頼人に逆恨みされてまで続けることはないよ」
「弱者は経済的にも精神的も追い詰められています。私に当たるのも無理はない」
「君の精神(こころ)はどうなるのさ」
「……私は弱者救済など掲げてはいません。昔から自分がおかしいと感じたことを放っておけない性分でした。それが治ってないだけです。正義の女神は法の下の平等のために目を塞ぎ、人々は保身のためならあらゆることに目を瞑る。そんな中、縋りついてきた手を振り払わない様に、私だけは目を開けていたい」

「弱者救済」ではなく、あくまで自分の信じる正義のため――日車はそうやって、救った弱者からの見返りを求めなかった。
これは精神的均衡を保つ方法として、とても正解に近かったと思う。見返りを弱者――すなわち他人に求めるのは危険と隣り合わせだからだ。他人は自分の思い通りにはならない。
(詳しくは以下の記事をお読みください)

強靱な精神力を備えていた日車が折れたのは、その後の事件を担当した時だった。
知的ボーダーラインのような、無自覚に搾取されている人が、一方的に怪しいと決めつけられて容疑者になる。うまく弁明もできない被告のために、日車は被告の周囲を徹底的に調べ上げ、無実の証拠を探し、そうして一審で無罪を勝ち取った。
しかし、二審で無期懲役が下る。依頼人は恨みのこもった目で日車を見る。
これが日車の心を砕いた。

人の心に寄り添う。それは人の弱さを理解するということだ。被害者の弱さ、加害者の弱さ。毎日毎日毎日毎日、ずっと食傷だった。
醜い。他人に歩み寄る度そう思うようになってしまった。

人は皆! 弱く醜い! オマエがどんなに高潔な魂を望もうとも!
その先には何もない! 目の前の闇はただの闇だ! 明りを灯した所で! また眩しい虚無が広がっている!

報われないことを覚悟していてもやはり、報われないことはつらい。
それはごく当然のことだ。見返りなしに何かを施してやれるはずもない。感謝も金銭も社会的地位も何も手にすることがないのに、いつまでも続けられるわけがない。
日車はそれに耐えられると思っていた。実際、日車は頑丈だった。
でも、頑丈さだって限界がある。

日車と夏油の分水嶺

夏油と同じように日車も人の弱さを見続けて失望した。ただ、この二人はそれぞれ違う結論を出す。その理由として、以下に3つ挙げる。

①年齢の違い

夏油が呪術師の役割に疑念を抱き、そのおよそ1年後、高専を出奔した。当時の夏油は呪術師として大人顔負けの強さを誇っていたが、同時に学生だった。
一方の日車は36歳。キャリアのスタートは20代半ばから後半にかけてだろう。夏油より時間がかかっている。
日車が人間への希望を捨てるまでそこそこ時間があったのは、日車がそれなりに大人だったのもあると思う。

前代未聞の大量虐殺を引き起こした時の夏油は学生だった。
高専では学生でも大人に混じって仕事をする。それが普通の扱いだ。補助監督はあくまで任務の補佐しかせず、指導する立場にはない。
人手不足を言い訳に、学生を大人と同じ扱いにしているのは高専の怠慢でもあった。それに自覚的だったからこそ、夏油の周囲の人間は、夏油のやったことを決して肯定しないが、同情的な様子も見せていた。

高校生くらいではもう子どもとは呼べない。でも大人でもない。自分がいくら子どもではないと思っていても、正真正銘の大人から見れば未熟なところはいくらでもある。
醜い弱者に牙を剥いた夏油に対して、日車は権力側(=間違ったルールを強いる側)を殺し、かつ自分で踏みとどまることができたのは、夏油は大人びているだけで大人ではなくて、日車は大人だったというだけのことだ。

(日車は逆恨みされた被告ではなく、被告にそういう目をさせた検察側に殺意を向けているが、それが彼の矜持だったのかもしれない。自分の信じる正義に違反した人間が体制側の強者だったのもあるけれど。問題の根本を見間違わない程度には、日車は大人だった)

②社会的地位の差

一般的に、弁護士の社会的地位は非常に高い。司法試験がまず難しいし、相当の能力がなければ弁護士にはなれない(そして一般的には高給取りの部類でもある。日車は金に頓着しないが、これは裏を返せば彼の実家が裕福で生活に困っていないからとも考えられる)。
一方の呪術師は、そもそも一般に認知されていないし、されてはならない。いわば日陰の立役者だ。こちらも高給取りのようではあるが、非術師が大半を占める社会の中での地位で見れば、弁護士の方が上だ。
呪術界では皆が呪術師であることが条件なので、呪術師であることにさほど価値はない。あえて言えば、階級がそれに当たるかもしれないが、特級だからと尊敬を集めるようなこともなさそうである(血統重視のようだし)。

弱者救済はノブレス・オブリージュとよく似ている。力を持つ者がその社会的身分に負う義務として、弱い者へ奉仕する。
しかし、ノブレス・オブリージュは施す側の社会的地位が高いことが前提だ。その点、呪術師は足りない。非術師より力はあっても社会的な承認を得られる職業ではない。生物的に強者でも、社会的には弱者とはいかないまでも強者ではない。
その狭間に夏油は落ちていった。

日車には肉体的なダメージがない。どれだけ人の醜さを見たとしても。
むしろ弁護士として社会的地位は高くて、醜さに直面し続けることのプラスの報いを社会から得られている。夏油にはなかった「感謝」を、日車は得てきた。社会からどう思われたとしても、ささやかな感謝だけで、きっと日車は生きてこられた。
法に従って「正しい手段」で弱者を救えるなら、自分の信じる正義はたしかにそこにあると思えた。
だからそれが覆った瞬間、日車も折れる。

③正しさの根拠

同じような挫折を経験しながら違う結論を出す日車と夏油の分かれ目は、キャリアのスタートが成人していたか否かとキャリアに対する社会的地位の有無にあるが、更に言えば「正しさ」の根拠にもあると思う。

「正しさとは何か」については以前にもいくつかの記事で書いてきたが、一番は社会で広く共有されていることだと思う。
日車の信じる正しさは社会通念上の倫理ではあるが、一方で法でもある。彼は弁護士であり、法律とはとても近い場所にいる。
だからこそ、法からこぼれ落ちる弱者を救うことを信条とした。多くはなくとも、そういう活動は世間的に拒絶されているわけではない。

実際、読み手であるわたしたちは日車の行いに理解を示すことができるし、それが世界のどこか片隅で行われているだろうと想像することもできる。
現実と陸続きのリアルさ――それこそが、日車の行いの根拠を補強している。

正しさの拠り所を己の内にしか求められないのは、常人にはとても難しいことだ。
「信じられるのは自分だけ」なんて、並大抵の精神では成し得ない。社会性の生き物である人間は、己一人で完結することはない。

夏油たちがいる場所で、法律は機能しない。法に従い、法に守られる人間を相手にしないからだ。
法の外で剥き出しの負の感情を相手にする夏油は、「正しさとは何か」の沼にはまって抜け出せなくなった。誰もが持つ汚い感情に直面して、清濁併せのむほど器用でも大人でもなかったから。
相方の五条が揺らがない正しさを持ち、自分一人で完結できるほどに強靱な人でなしだったことも、悲劇を加速させた。

司法の裁きと法治について

時に法は無力だ。だが死滅回游の総則(ルール)はどうだ? 俺に与えられた呪術(ちから)が本物ならば、総則も本物なんだろう。
告訴も公訴も必要ない。真偽を争うこともなく、総則を犯した者は物理法則のように罰せられたら? 素晴らしいことじゃないか。総則に問題があるのは認めるが、回游の土台の結界術は見守りたい。すぐ終わってしまっては困る。

裁判官も検察官も弁護士も、果ては刑事も処刑人も皆、人間だ。法律も人間が作ったものである。では何故、法の下の平等が成立するのか。
それは、役割が細分化されて、責任も分散されているからだ。

日車の術式は、警察(証拠集め)、検察官(起訴)、裁判官(判決を下す)、刑の執行人という、罪に対して裁きを下す側の役割を全部ひとつにしている。
法治国家とは、これらを細分化して切り離すことで、人が人を裁く構図を解体し、法の下の平等が担保される仕組みだ。
法の下の平等、その実践に疑問を覚えた日車の術式として、これ以上ないほどふさわしい。

前述したように、法律とは社会全体で共有している、明文化された「正しさ」だ。人に対して制定された法律ではカバーできない呪霊と戦う呪術師にとっては、その正しさは無価値になる。だから、己の内に正しさの拠り所を作らなければならない。
呪術師の家系に生まれたなら、呪術師になるのが当然という価値観を持つので、さほど苦しまない。しかし、一般家庭出身だと「正しさ」が揺らぐ。
ただでさえ、今までと違う常識の支配する場所に飛び込むのに、更に負荷をかけられたら末路はおのずと知れる。

術師として目覚めた日車は、「正しさ」の実践を法に頼らなくなる。
彼は己の好き嫌いといった感情をコントロールし続けてきたが、それを止めてしまう。

気に入らない奴をブチ殺したことはあるか? 思っていたより気持ちがいいぞ。

有罪を宣告する時のジャッジマンは、固く縫いつけられた瞼を開く。そこには闇が広がっているばかりだ。
「保身のために目を瞑る人々の中で、縋りついてきた手を振り払わないために自分だけは目を開けておきたい」と言った日車の術式は、天秤を持つ仮面の両目が縫いつけられている。

皆、真実を述べるなら、裁判など必要ない。

この台詞は、ずっと思ってきたことだろう。弱くて醜くて、でもそういう汚い人間も法の下で守られるべきだと信じていた。
それがルールを運用する側の「不正」で崩されて、日車は限界を迎える。

目を閉ざしたジャッジマンのように、日車も本当は目を閉じたい瞬間があったのかもしれないし、法では裁けない事件を裁くために目を閉ざすことにしたのかもしれない。
(あるいは、本人を対象として発動できないと仮定すれば、自分を裁く対象にできない「不正」に目を瞑って他者に裁きを下すせいなのかもしれない。弁護士も警察官も検察官も裁判官も執行人も、罪を犯せば相当の罰が下るのに、日車だけが例外なのは卑怯だろう)

法によらない手段で法では救えなかったものを取り戻すように、日車は一人で相手を捌き続けていた。これは完全に私刑である。
日車の絶望は、被告(依頼人)に逆恨みされたこと自体よりも、平等であるはずの法を恣意的に運用する人間の醜さに起因しているようにも見えた。

だから、日車が心神喪失という法的な根拠をもって虎杖に無罪だと言ってやるのは、とてもいい場面だったと思う。
本来、感情に区切りをつけさせるのが司法の裁きであり、日車は虎杖にその方向性を示した。大量虐殺なんて大罪の前で、感情面ではもう収集がつかないところへ蜘蛛の糸を垂らすのにも似ている。
感情は本人が最優先されるからどう説得しても無理だから、別側面から視点を示してやる――なんてまともな大人だろうか。

虎杖はパチンコ屋に入ったことは嘘をついて言い逃れしようとしている(特に悪いとは思ってない)くせに、渋谷の大量殺人は一片のためらいもなく自分のせいだと言う。
虎杖のこの態度はとても潔くて、世の中の正しさを信じて、また信じられる環境にいたのだろう。
そういう虎杖の態度が、日車にかつての志を思い出させた。

結界が開けたら、自首でもするかな

ジャッジマンでは裁けないだろう己の罪を、日車は認めた。
日車は虎杖を救ったけれど、同時に虎杖によって救われてもいたのだと思う。


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