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R5.5.9 ちょっと「他人の心」について
連日お酒を飲んで寝ているのが響いている。朝が辛い。9時ころに起きる。倫理学の講義へ。家に帰る。ちょっと小レポートを進める。演習に行く。講義に行く。サークルの人とご飯を食べる。帰ってレポートを進める。課題がかなりスッキリした。とはいえ、まだ課題は残っているが……。
オースティン『他人の心』を、カヴェルを補助線にして読む論文
を読みました。
オースティンの「他人の心」は未読。近いうちに読みたいところ。
読んだ論文について。
オースティンの「他人の心」という論文は、次のような話である。つまり、鳥がいて、Aさんがその種を特定できたとしよう。一緒にいたBさんがそこで不思議に思って、「それをどうやって知ったんだい?」と聞く。この疑問文はどのようなことを意味しうるか。
この疑問についてはしっかりと論理立てて説明してくれるらしい。しかし、最後になって不思議な結論を残す。つまり「そもそもうぇあれわれはなぜ他人を人間として、自分と同じように心を持つ存在とみなすか」に正当化は存在しない。そのような懐疑論的な問いは不真面目なものである、と。
そしてこの変わった結論に対する説明はされない。およそ求められているものであろうに。
私が今日読んだ論文では、この最後の不可思議な結論を、カヴェルによるオースティン解釈に基づいて説明するというものだった。
カヴェルの論点を言うなら、次のものに集約されるだろう。つまり、「言葉の意味はその使用」であり、「言うことは行為すること」というものである。前者は後期ウィトゲンシュタインから受け継いだ意味論的な立場、後者はオースティンから受け継いだ語用論的な立場である。
これがどのようにしてオースティンの不可思議な結論を説明するのだろうか。ここで大事なのは、不可思議な結論で想定されているものは、懐疑論的な問いが不真面目なものであるという読みだろう。
何が真面目な態度になるかは上の2点を踏まえたものであり、それに従わなければ不真面目である。かなり強引な筋に感じる。
で、次は私の解釈。「他人の心は正当化しえない」はざっくり言えば、「なぜ知っているか」で知識に対して懐疑論的に問うことは、知識に対する日常言語的な規約を破るものであり、底に対してツルハシを立てるようなものである、と。
だからオースティンは不真面目な態度だと懐疑論を批判する、ということだろうか。
うまくまとまらなかった。
私が当の論文をうまく読み込めていないからだろう。
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