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R5.5.19 語り、帰省

人と話すのが苦手だ。相手が何を知っていて、どうすれば面白く反応してくれるかわからない怖さ。会話するときは不安に襲われる。
でも人と話し続けていたら慣れてきて不安も和らいてくるものだ。そしてもっとも油断したとき、パリンと地面が割れて沈んでしまう。

ラベル貼り

人からラベルを貼られて、それで理解されたような気分になるのが嫌だ。そう思う人は多いだろう。私もそのうちの一人だ。
しかし、私は人とうまく話すために、よく人にラベルを貼って話しかける。ときとして藁人形を作り、そいつにラベルを貼ってサンドバッグにしたりする。

先日そのこと指摘され、責められた。虫が良すぎる、と。

首尾一貫した整合的な日常会話はムリだ。そういった破綻を覆い隠しつつ人と会話する。しかしその破綻は時に隠し切れずに地面を割ってしまい、対立をあからさまに引き起こしてしまう。
墓穴を掘って、自分で見ないふりをして隠し、まさかここに落とし穴があったなんてと驚く。

この破綻をどうやって解消し、縫合するかが本当に悩むべきところだろう。
まだそこまで踏み込めない。その手前の話をする。

私はしょっちゅうこのようなミスをしてしまい、人に責められる。自己反省するのはすでに事が起きてしまったあとだけだ。事を起こさないでいつづけたい。これは学習すればできるもの? 本当だろうか。

これができる人とできない人がいる。明確に、立っている大地が違うかのように。できるのはただことが起こってしまってから、自己反省を促すことのみ(そして私は促されるのみ)。
安寧の中で人と渡り合いたいのに、そういうのができない苦しさ。
過去にいくらでも積み重ねてきた事件を思い返す、後ろを振り返る。

早く前を向いた方がいいと、わかっているのに。

本気になれない(死ぬ気になれない)

本気になるとはどういうことか。私にはよくわからない。

常に全力だったからじゃない、全力になれたことがない。この先、全力を出せることもないだろう。

そのことを強く感じるのは作品を観賞しているとき、感想を述べるとき。
お前は適当に作品に当たっていると言われるし、実際私も意識が作品にむかい切らないで観賞しつづけている。本気で作品を味わうこと、どういうことだ?

小説を含む文字媒体のコンテンツであれば、噛んで含めるように何度も同じ箇所をいったり来たりし、読み残しがないようにじっくりと読むことになるだろうか。しかし、じっと近くで眺めることは、作品を読み耽りドンドン読み進めていく観賞と違う。そして読み耽っている人間に対して、お前は適当に作品に当たっていると言えてしまうだろうか? そんなことはない。それもまた本気の形の一つだろう。

ただ、最近になって私は作品を読み耽る感覚も希薄になり、繰り返し反芻するのも時間がかかって疲れてしまうのでやらなくなった。むしろどんどん読み飛ばしてサクッと内容を確認する程度の読みをするようになっている。私は繰り返し読むべき本を探している。その判定のために読んでいく。
だが読み返す機会なんて本当に来るのだろうか?(10年後になってやっとわかることかもしれない)

映像作品を本気で観るとなると、せいぜい気を散らさないで観る、ということだろうか。それはもはや映画館でしかできない。注意が散漫してしまい、気付いたらネットを見ている、なんてことが多い。

本気で作品に当たれない。
そういう人に作品について語る資格があるだろうか? よしんば語れたとして、その内容に強度があるだろうか?

作品に対しても、語ることに対しても、本気になるとはどういうことか、やはり私にはわからない。
ちょうどいい距離感で、私はもう少し距離を取って、臨んでいくしかない。

悪口コミュニケーション

先に述べた私の陥穽も、ここから明らかになった。
私が楽しめない作品があり、楽しめなかった話をして、ちょっと反論をされ、ムッとしたので皮肉を込めた返しをしたら、それはよくないと怒られた。皮肉を込めるのは結構だが、その込め方がよくない。(ただ、それで相手がいらついたのなら、それはそれで目的が達成されているので、自然な帰結である)

皮肉、つまりラベル貼りをしてからかったわけだが、そういったからかいは暴力を孕んでいる。その暴力(相手を方にハメる力)は根源的なものだ。この力があるからこそ悪口になりえるし、そしてその悪口が許容されて笑いになる。悪口がどのようなときに悪口として機能し、ときとして親密なコミュニケーションの表れとなるか、それはそのやり取りをしている人の間柄に依存する。

そして親しい中でも許されるものと許されないものがある。ラベル貼りを介したコミュニケーションは私も嫌いだが、だが同時にもっとも安易にできてしまう故に頼ってしまう。

意識的に外せるのだろうか(いったい何がラベル貼りで、そして何が本人の正しい属性なのか、その判断はどのようにして為されるかがわからない)。

言わば、常にその瞬間ごとにまっさらな状態で会話することになる。

あのときの私はどうすればよかったのだろうか。
私が楽しめなかったところ、人がそこを楽しめないのに納得しなかったこと。私が反論しなければよかっただろうが、すると私が自身の判断に閉じ込もっているように見えてしまうわけだ。もちろん反論する。
その反論するときにラベル貼りをしない、これが穏当なあたりだ。

ならその反論は何によって為されるか。私には合わなくて、あなたには合わなかった、これがもっとも穏当だ。しかし、私はそのときこのやり方を選びたくなかった。これは切り札であり、もっともありふれていて、つまらない。もっと深く近付き、直接殴るような反論を……。

そして本気で観賞していればもっと本質を付いた返しができたかもしれない。ラベル貼りのような安易な返しをしなかったかもしれない。そもそも楽しめたのかもしれない。だが、そんなことは起こらなかったんだ。
私は作品に向き合う力も弱いし、飲み下す速度も遅い。どうしたらいいのだろうか。
地に足が着いた堪えはこうだ。鍛え上げるのみ。地道な筋力で殴り倒すこと、これが作品の感想を介したコミュニケーションでもっとも信頼に値する。

昨日のこと

2023年5月18日。
4月から1ヶ月、ともに実習を過ごした人たちと再び飲み会をする。
発端はキス釣りをしている人がたくさん釣れたのでふるまいたいとのこと、私は日本酒と米焼酎を持っていき、作ってくれた料理をつまみにして楽しむ。
トランプを持ってきた人がいた。私は参加しなかったが、インディアンポーカーでゲラゲラ笑っていて、主催者に怒られていた。簡単な遊びで盛り上がっていて楽しかった。

ビートボックスをひたすらにやる人もいた。今年度出会った人とこんな混沌とした空間を作るとは思いもしなかった。

私もかなり酒が進んでしまった。
どうやら私は酔いが深まると何かに抱き付く癖があるらしい。中途半端なところに立っていた柱に抱き付いて不気味がられた。

そのあとに哲学の道までホタルを見に行く。途中でまた樹に抱き付いた。

哲学の道まで行くも、見たかったものがあまりいなかった上に雨も降り始めたので解散。家に帰って寝た。

今日のこと

19日。二日酔いでなかなか起きれなかった。昼頃にノロノロと起き出してプチ帰省の準備をする。バス、新幹線、電車、歩き。京都から東京へ、実家へ。

交通機関を利用している間はひたすらにKindleで本を読む。実家にいても本を読む。おかげで3冊も読了できた。
1冊は『グレイス・イヤー 少女たちの聖域』。ディストピア小説。土曜日にある読書会のためなのだが、最近まで手を着けていなかったので急いで読んだ。設定がかなり複雑だったが、SFとしての出来がかなり高く楽しめた。

2冊目は小林秀雄『ドストエフスキイの生活』。これはコツコツ読んでいたのだが、あまり小林秀雄本人の思想が見えてこなかったため、それを目的としていたこともあり止まっていた。しかし、作家論で著者の思想が見えてこないなんてことがあるだろうか。その透明さに驚く。
(ただ、私が他の作家論と比較して語っているわけじゃないから、これは私の読解力不足もかなりあるだろう。だが、小林秀雄がドストエフスキイの人間性に肉薄したかのような語りをしており、私はその筆力に騙されたのだ、そういう話にしてくれ。)

3冊目は野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』という戦い』。あまり味気がなかったかな。でもスッキリしていて、『探究』に対する見通しがかなり立った。この平明さ、野矢茂樹のすごさがあってこその、さっぱりした解説だった。

帰省する途中、山手線で見かけたかわいい女の子のことが忘れられない。ボブカット、ピンク色の縁をした眼鏡、黒を基調とし赤い指し色のあるゴシック風の服。
ジッと眺めているのがバレないように、ときどき視界の端で捉える。

そういう隠れるような意地の悪いことをしてしまう自分が嫌だった。しかし、「かわいいですね」なんて声をかける方がもっとキツい。だから黙って目的の駅まで過した。それでも私の頭のなかに残り続ける。

ああいう女の子と出会いたい、ほのかな欲が芽生えている。(逆に私がああいう見た目になってしまいたい。本当はそっちの心が強いのかもしれない)

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