R5.6.13〈批評〉への私信と計画

私はまだ批評と言えるような批評を書けていない。いったいいつになったお前は批評を書けるようになるのだ。いや、そろそろ書こうと思っているんですよ。それはもう壮大な計画のもとに批評をしようとしているのですが。いやいや批評というのは日常的な実践ではないか? 作品について日々アレコレ言うではないか、あれは批評だろう。そうだが……いや書くという気持ちを固くして批評しているわけではなくて……。ええいうるさいお前は最近寝て実習に行き寝てご飯を食べて寝て実習に行くだけの自堕落な生活をしているではないか、作品を鑑賞するのとは別の娯楽的な読書ばかりしているではないか、お前はいつになったら本当のことをできるのだ? 必要な、優先度が高いとわかっていることに手をつけずに私はただ夢を語る、その夢、大きな計画についてのラフなスケッチについて。


作品の価値とは

結局のところ作品に内在する価値はないし、人が作品についてどうこうっているのは実は作品そのものについて語っていない、作品は発表された瞬間に作者自体の手を離れ、表象としてしか作者も読者も触れられなくなる。

カントの『判断力批判』(読んだことないけど、熊野訳パラパラめくりながら抜粋)で主張されるような「普遍的な適意の客体」や「客観的に普遍妥当的な判断」(これは同時に主観的に普遍妥当的)。論理学的な客観とは違うやつ。
これってやっぱり後期ウィトゲンシュタインと似ているよなって最近気付いた。まぁ、思えばこの考え自体はカヴェルの著作を読んでいたらそういう話がされていたのがやっと実感されただけなんですが。

語の意味とはその対象であるとかそういう言語観と作品に価値が内在するとか作品の価値が実在するっていう考えはパラレルで、そのアナロジーに従って後期ウィトゲンシュタイン的に考えれば、やっぱり作品の価値について私たちが語るっていうのは日常言語的な規則の上で初めてできることなんだろうな、と。

まぁ作品に価値があるような語りってのは人によって違うもの、そうはならんやろっていう規則のパラドクスが起きたとしても、それはパラドクスとして認識されはしない。そもそも作品の鑑賞っていうのはそういうもんだろ。
でもこれは途端に素直になって考えてしまうからこうなっちゃう。
一人で瞑想するかのように省察するとこの混乱に陥る。

ネットとか普段の雑談とかでは「あれって良いよね」も「あれは面白くないよね」っていうのが作品に帰属される性質のように語るのは日常的に普通のこと。これに疑問を持つのは、プチ懐疑論で、言語的な混乱と似ている。

〈批評〉の仕事とは

この話を突き詰めていくと『言うことは意味することであらざるをえないか』第3章「近代哲学の美学的問題」みたいになるんだろう。でこのカント→後期ウィトゲンシュタイン→カヴェルの素描に従って私にとって批評って何だろうなと考えてみるわけですが……。

とりあえず最初にザ・批評ってこれだ! って話をしたいんじゃなくて、まずおおざっぱに「うんうんそれもまた批評だよね」みたいなラフに語られる〈批評〉について考えてみる。で、ここで私が提案したいというか、つまり作品について語るときに、先で述べたような混乱があるかないかで二分してみて、さらに作品について語るときの態度を2つに分け、合計して4つに場合分けしてみる。

  • 日常的態度で、私の感性だという感じで語る→「感想」

  • 日常的態度で、でも私じゃなくてもそういう風な判断をするものだろという感じで語る→「レビュー」

  • 懐疑論的態度で、私なりに語る→「エッセイ」

  • 懐疑論的態度で、私を消して語る→「批評」

これら全部批評なんだけど、でも私が批評って言うときは最後のようなやり方を理想としたいなって最近は考えているわけですよ。

ただまだこの考えを煮詰められていないので、この先大きく変わっていくと思うんですが。

計画

美少女ゲームというかノベルゲームはメディウムの形をした懐疑論だって思うんですけど、まぁこれもカヴェルが映画について語るときの態度と同じかもしれないんですが、まぁそういう視座で作品について語りたいわけですね。

で、そういう態度をinnocent greyのゲームシリーズ『Paranoia』(カルタグラ~天ノ少女)について読解することで深めていきたいなと思うわけですよ。

ところで上で行ったような懐疑論的な批評はウィトゲンシュタイン的な治療的哲学観を引き継いて、懐疑論を解くための論考たりえます。
時にカヴェルは『哲学の〈声〉』においてこのような哲学を混乱の治療と見るあり方と精神分析学における治療の類似を指摘しています。

哲学の声とはつまり普遍的に語ろうとする語りであり、自伝的な声を排除しようとしますが、語り自体はその根源において哲学と自伝が混じったものでありかならず混じったものとなっています。
哲学的な治療と精神分析学的な治療はその根源において混じり合うものなのかもしれない、そのような示唆を受けるわけです。

で「カラノ少女」の主人公時坂玲人は探偵であり、その推理を「パラノイアを解く」ことと重ねています。これは精神分析学的な態度なものです。
事件の根本にいるラスボス六識命のことを思えばこれは皮肉のようにすら感じます。

さて、上のような性質を帯びる作品を批評する私たちの態度は哲学者の態度と似通います。当の作品の価値とは何か考えてしまう混乱を治癒するのがこの作品を批評するものに課される使命となるのです……それは時坂玲人が事件を解決しパラノイアを解くのとパラレルです。

このことを出発点とし、種々の美少女ゲーム……SCA-自の幸福三部作やルクルによる作品……について批評するのが私の計画となります。特にウグイスカグラの作品は鑑賞者に対して徹底して懐疑論を煽るものであり、だからウグイスカグラ作品を批評するとは懐疑論へ取り組むことと同じになるのです。

語り切れぬ、だから語りつづけなければならない、批評に終わりはない

上の見方に従うと、混乱の寛解によって批評は使命を終えるようなものに感じられるかもしれませんが、そんなことはまったくないです。そもそもが語り得ぬものについて語っているのであり、それは一挙に解決できるものではないために、つねに語りつづけていくしかないのです。

語っている対象について新しい見方を獲得することとは対象の見えていなかったことを見えるようなったことではありません。すべてが見えるようになる瞬間などやってこない、見えるものが変わるとは当の対象に起こったできごとではなく、アスペクトが変わるとはつまり見ている当の人物に起こった変化です。

作品について語る言葉は日常的なもので十分であるのだと語りつづけていくのが結局のところやりたいことかもしれません。そして、日常言語で十分であるのに、そうじゃないような不安と常に戦うわけです。

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