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R5.6.17 ハナタバ(あつい)

気付いたら毎週別々の本で読書会している気がする。真面目なのは1個だけにしないと体力的に限界かも。

金曜朝コンタクトを作り、そのまま哲学の演習へ。資料は読んでから行け。
そのままずっと春樹の新作を読み続けたが、真面目にあたると時間が足りなくなるので急いで読んだ。もう何もわからない。
土曜にて。


ベンヤミン「技術的複製可能性の~」

くそ酔っぱらたときにえちか君に対して「読まなきゃいけない積読なんかな~い?」と圧をかけて読書会を生やしたやつ。午前のこと。

アウラで有名な論文なのだが、あまり「アウラ」の話はなかったかな……。序盤にタームとしてちょろっと出てきたくらい。
邦語訳のでレジュメなしの読書会だったが、散漫とした雑談に終始してしまった。そういうのならあまり読書会の体をなさなくてもよかったかなと人を巻き込んでしまって申し訳思うなど。

出てきた話で面白かったのは、「アウラ」がなんのために使われたのかということ。現前性とも真正性とも違う使われ方をしている。
そもそも私たちは芸術作品に触れるときに、その芸術作品に直接触れられているだろうか。鑑賞というものは芸術作品へとアクセスするときに、直接なされているものだろうか。

直接為されていると思うのはもはや言えない。そのようなナイーブなことを言えるのなら(逆説的な話だが)もはや何も問題はないだろう。

直接作品に触れられないならば、つまりそれは膜のように作品側を覆っているものなのか、私たち自身の判断力の問題なのかといいたくなる。ここでアウラは、実のところ作品側にも鑑賞者側にもない、という形のメディウム的なレベルで作用している話になるのだろう。

こう整理してみたが、まぁ、ベンヤミンから示唆を受けて会話をしてこういうのを考えたよって程度ですが。

読んだのは第3稿なので、その内容を乱暴に要約すると次のようなものだろう。つまり、芸術にはいま・ここで礼拝している価値というものと、芸術そのものとがあったが、前者はアウラが凋落することによって消えつつある、芸術のための芸術へと開かれつつあるのだ。アウラの凋落は写真や映画のようなものによるらしい。映画の方になってくると話の毛色がかなり変わってくる。エリート的な芸術消費から大衆的な芸術消費へと、という具合だろうか。

あまりこの論文(まぁ論文の体裁がまったく整っていないんだけど……)についてくどくど言っても仕方がないかなぁ。

ゲストとしてお呼びした初雪さんがベンヤミンの中では珍しく未来について語っていると言っていた。たしかに私が期待したベンヤミンは廃墟にある宝を探す姿や、過去の作品を燃やし尽くしてしまい何も残らないか核が残るか試す姿であった。別の論考に触れてみたいかな。

村上春樹『街とその不確かな壁』

午後はしょーへいさんら主宰の小説読書会。こっちは具体的に話に参加したりしなかったりだったので小休止になった。
途中でコンタクトが外れたりして大変だった。

村上春樹自体が初めてだったが、プロットがチグハグだったことに目をつむれば楽しめた?

文体自体が気持ちいい。やっていることは気持ち悪い。
17歳から40歳になるまで初恋を引き摺り、最終的に会社を辞める……貴樹くんですか?

街とは何か、語らない方がいい。そのまま感じ取る。影とは何か。忘れよう。

もはや感じたまま、そのまま放置するしかない。そう断定して、押し込める。

ハッキング講演会

夜、GACCOHさんにて行われた「やっぱり知りたいイアン・ハッキング」へ。

https://twitter.com/GACCOH/status/1669946932654116865?s=20

クーンの話3割の講演会。科学哲学の問題は哲学というわりにはかなり具体的な印象。

やっていることはウィトゲンシュタインの影響下でクワインやクーンの問題を引き継ぎつつマルクスやフーコー的に科学を扱うってことになるのかな? 固有名つかって無理矢理まとめた感じが否めないが……。

ハッキングの哲学的な動機は「なかったものが存在するようになったのは何如にしてか、それがあることは私たちとどのような関係にあるのか」。
科学的な概念はさまざまなものを客観性を伴うものとして実体化させる。あるときになぜ実体化されたのか、その歴史性を開示し根源を確認することで哲学的混乱を治療するという見方が最初のパート、次は変遷していくあり方という歴史性をつぶさに見ていくという説明しつづける姿勢がある。最終的な動的唯名論はこのハイブリッドなもののように感じられた。

今の見方は議論の抽象的なところだけの話だったが、議論はけっこう具体的なものが多かった。個人的には、いやその要素をまとめてコネコネするところが面白いところでしょうがぁ! っと言いたいところ。そこまで関心がなかったのかな。

たとえば推論のあり方についての議論。その正しさが何によって検証されるのか。メタ的な推論は存在しない……。そのときごとのスタイルによって、そのスタイルを選択していることによって推論の正しさとなる、トートロジカル。ここに底があって、それを確認してしまって終わる。もっと突っ込んでくれよ。

会に行く前に足早に『客観性の落とし穴』を読んだ。

これもかなりハッキングの影響を受けていたかな、と(実際参考文献にハッキングの著作がいくらかあった)。
この本がかなり読み易かったので、客観性というものそのものを疑うためにも、かなりよかったかもしれない。
ケア的に言うなら「客観性に殺されないために」。個人的な経験がむしろ強調されるほどに客観性について考えていた夜だった。

まとめ

スーパーハードな土曜日だった。さすがに来週は休みたい。

ここで一気に読むべき本が解消されて、次の締め切りまでだいぶ余裕があるなど、楽観的な気持ちになれた。

とはいえ、もっと必要な本はある。論文の書き方の本とか中央公論社の哲学の歴史シリーズとか言語哲学大全とか、西洋哲学史とかもろもろ。あとは研究室訪問(オンラインででも)とかもしたい。
自分の自我が出る読みが人と接していると感じていて、やりたいことも明確になってきた。

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