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R5.5.7 ちょっと青色本

7:20に起きる。バイトへ。行き帰りともに雨。
夕飯を軽く済ませて本を読む。
結局ゴールデンウィーク後半はバイトして寝て、その合間合間に本を読んでで終わった。

『デリダ 脱構築と正義』『世界哲学史I』『青色本』。途中まで読んでいたのをバシバシバシと読了にまで追い遣った。少し安心。

『青色本』

『青色本』はウィトゲンシュタインの著作の中でも比較的読み易いとされる。もちろんウィトゲンシュタインが生々しく哲学をしている本であるため、わかりにくい。

『哲学探究』を平行して読み進めていたこともあって、比較できるところも多かった。特に後半に入り、独我論を治癒しようとするところは似ている。『探究』の「私的言語」パートの下書きなのではないだろうかと思ったほどだ。

『青色本』の独我論パートでの相手はなんだろうか。それは言語の持つ公共性の外側へと行こうとする哲学者たちであろう。
(このように私が感じるように、そしてこのパートを読む多くの人もそう感じるからこそ、その単語が出てこないにもかかわらず「私的言語」という語が頭にチラつく。)

言葉を使って人と対話することをもう少し考えてみる。つまり、言葉を使ってゲームをすれば規則が生み出されること。規則があれば、それに再び従うことで、同じうようなゲームができること。
このゲーム→規則の流れは、意味を生み出す流れであり、意味があるとされれば、その意味を使ったゲームがまた別のところで繰り返される。

しかし、「私的言語」を頑なに信じようとする人は、そのようなゲームと規則への不参加を表明していることになるだろう。

「私的言語」を用いてゲームはするが、その言語の特性故に(特性という言い方もおかしいが)規則には絶対に従わない、というところだろうか。

こういう解釈をしてみると、独我論(懐疑論の一形態とも捉えられるこの世界観)は、言語を媒介してしまった時点で論駁不可能なように思えてくる。言語の持つ公共性がどれほど確からしいものなのか。
日常的な言語に基づいて話そうとする限り、独我論を主張する人々を説得しきれないのかもしれない。日常言語には会話の規準や徴候に底がある。日常ではその共通した底の上で満足できるが、独我論に陥る人々はそこで満足できず、さらに底を掘ろうとする……。岩盤を掘ろうとするかのように。

だから『青色本』の締まりは悪い。独我論のもやを完全に払い切ることができず、すくなくともこれだけは事実だと確認して終わる。
独我論を快癒させる道程は長い。いや、途方もない。

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