YMOに於ける高橋幸宏の存在証明。(追悼掲載)

 日本のセッションドラマーの草分け、村上秀一の自伝に、彼の70年代末の活動休止期のエピソードで「あの時、俺がそこにいたら、YMOに入っていたかも知れない」と語る証言がある。同時期にメンバー3人が並行参加していたKYLYN、格闘技セッションのメインドラマーだった村上の余録は、歴史のifとして面白い。人民服などのコスチュームやヴォーカルを高橋が担当していたことを思えば、即座に否だとYMOファンは異を唱えるだろう。だが、結成時に細野が「演奏しないメンバー」として横尾忠則を4人目に加える計画もあった逸話もある。衣装専任の別メンバーがYMOをパラレルな成功例に導いていたかも、というifも成り立つ。YMOの歴史は、常にある種の気まぐれで動いてきた。細野自身も当時のブームを振り返り、「ああならない可能性のほうが大だった」と語っている。

 ツアーの準メンバーだった大村憲司のケースは、さらに話を見えにくくする。クラプトンに心酔していたブルース・ギタリストの大村がなぜYMOに呼ばれたのか、当時の私には不思議に見えたもの。アメリカで大喝采を受けた、前任でツアーに同行していた渡辺香津美のフュージョン風演奏から「ロックに引き戻したかったから」というメンバーの説明もあるが、これは的を得てはいない。ライヴで時折見せる渡辺のロックネスのほうにむしろYMOとの適性を感じる、耳の肥えたファンも多いのだ。留学経験が豊富だったことから通訳も果たした、YMOの80年の世界ツアーの大村の起用は、音楽性というよりむしろ彼の人柄評価なのだろう。『増殖』(80年6月)に於いて、メンバーのリクエストを履行し「フィル・マンザネラ風のギター」を弾いている、大村のプレイから窺えるのもその誠実さだ。

 前置きが長くなったのは、「YMOに於ける高橋の存在」というテーマについて説明するのに、コレクターズ誌の分析の基本型としてある「音楽性の一致」「プレイヤーとしての相性」など、レコードに刻まれた音だけで類推することが、的確ではないと宣言しておきたいからだ。

 いや、YMOの音楽面での高橋の存在は揺るぎない。コンピュータ・リズムに併せてドラムを叩くという細野が投げかけた課題に反発して、初期の候補メンバーだった林立夫が去った後、高橋は嬉々としてそれをに取り組んだ。「ドラマーとしてのアイデンティティが崩壊するのを楽しんでた」という自虐コメントまである。スタックス、モータウンを規範とするダンス・ミュージックの適応性(フィルイン=装飾を嫌い、リズムキープを主眼とする、高橋が敬愛するアル・ジャクソンに由来する)に通じる、結成時からの“テクノ・ドラマー”としての感性。またレコーディングでは使われていない、ライヴでのシンセ・ドラムなどの導入も高橋の即席案。YMOのライヴショウを、レコードの再現に終わらないクリエイティヴな実験場へと誘った。赤い人民服に始まる奇抜なYMOのコスチュームも、デザイナー兼任である高橋の仕事。ファースト録音中にメンバー間で再燃していた、アール・デコ再評価という美術史的なテーマが、レコードジャケットの発注の過程でA&R氏への伝言ゲームを介した結果、あの『イエロー・マジック・オーケストラ』(78年11月)の不格好なジャケット(!)を生み出した例を持ち出せば、音楽家の美意識をヴィジュアライズするのが難しいのがわかるはず。メンバーがコスチュームや美術に関わることの意味は、実に大きいのだ。

 そしてYMO成功への第一段階にあった「世界進出」も、レコーディング時の高橋の熱狂がメンバーを導いたものだ。細野すら結成時の「アメリカ進出の目標」はまだ観念にすぎず、村井邦彦社長でさえ、あの時期の海外進出には懐疑的だったと語っている。ミカ・バンドで限定的に海外進出を経験していた唯一のメンバーだったこともあるが、もともとミカ・バンド結成前の70年初頭のから、すでに加藤和彦らとロンドン遊学を過ごしていた根っからの国際性。その世界進出の「成功の確信」はむしろインスピレーションによるもので、「実は根拠はなにもなかった」と語っている。なにかと「霊的」と語られる細野を凌駕するほどに、高橋の当時の閃きは実に恐ろしい。『BGM』(81年3月)で「現代音楽へのアプローチ」を巡って、細野と坂本が理論的に真っ向から対立していた録音現場で、己のアール・ヌーヴォー美学を音に認めることに腐心していたというが、「『BGM』がただのアングラにならず、甘くなったのは幸宏のおかげ」(坂本)と後年メンバーも認めている。「バレエ」などの通じる不動のロマンティシズム。アルバムを名盤に導いた高橋の無意識こそが、第2期YMO成功の羅針盤だったと言えるだろう。

 そして本業はスタイリストでもあった高橋の、音楽コーディネーターとしての采配の的確さ。作詞家のクリス・モスデルをサディスティックス人脈から引き入れ、初期YMOのイメージ戦略に貢献。『ソリッド・ステート・サヴァイヴァー』(79年9月)のディスコ→ロック移行期に、シーナ&ザ・ロケッツの鮎川誠を細野に引き合わせたのも高橋だった。渡辺と回った世界ツアー終了の1週間後に、件の大村起用を進言したのも高橋である。スネークマンショーとのジョイントも、もともと番組ファンだった高橋が細野にテープを渡したのがきっかけ。逆に、立花ハジメの個性にいち早く着目するもYMOに起用することはせず、その受け皿として『音楽殺人』というソロ・アルバムを用意するというのも、その明晰さゆえ(幸宏ライヴ、スーザンの録音では、立花のソロ以上に、立花の魅力をプロデュースすることに成功している)。後期、空中分解状態にあったYMOに於いても、『浮気なぼくら』(83年5月)のビル・ネルソン参加、散開ツアーのデヴィッド・パーマー起用も高橋の案で、外部の血を入れることでグループ存続に一役買った。「ギャグが『増殖』の二番煎じ」と言われることの多いSETの『サーヴィス』(83年12月)も、ラジオ番組で共演していた彼らを引き込まなければ、これが最終作として完成していたかは怪しい。

 そのコーディネーターとしての最大の功績は無論、細野と坂本を引き合わせたことだろう。何? それは大瀧詠一じゃないかって? いやいや、それもまた歴史のifですから。

(レコード・コレクターズ高橋幸宏特集原稿の再録)


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