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漫画とうごめき#10

漫画家・戸川四餡(とがわよんあん)さんの作品『せんめつマトリョーシカ』を独自の視点で読み解きながら、連想される事柄や文化、思考を綴っていきます。

※このnoteは全力でネタバレをします。漫画『せんめつマトリョーシカ』をまだ読まれていない方は、まず先に『せんめつマトリョーシカ』を読まれてから、本エピソードをお楽しみください。

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感想

まず何よりも、この作品、内容や設定がかなり練り込まれてて、めちゃくちゃ、おもしろかったんですよね。
ページ数も90ページで、かなりの大作なんですけど、それでも全く飽きずに読み切れて。最後までですね。

で、表紙に書いてある煽りも、「雪景色を血で染める、ロシアン・スプラッタコメディー」とあって。
ここだけで、ただならぬ雰囲気、というのが伝わってきますね。


あらすじ


話の舞台は、スターリン政権化のソ連。
共産主義が提唱している無神論によって、神の存在が否定されているという時代です。

そういう時代の中に生きる「怪物」が主人公の話なんですよね。

なんというか、設定もかなり尖ってますよね。
ただ話自体は、笑いもあるし、泣ける部分もある。戦闘シーンもあるし、驚きの展開もある、といった感じで盛りだくさんなんですよね。
特に僕が好きなのは、背景の感じというか、ちょっと昔の漫画のような表現が随所に出てくるんですよね。
その表現が、怪奇的でアングラな感じを醸し出してて、個人的にはバシッと刺さりましたね。

主人公はマトリョーシカ4姉妹という姉妹で、マトリョーシカ人形をモチーフにした怪物なんですよね。
マトリョーシカ人形と言ったら、ロシアの有名な人形ですよね。
こけしみたいな女の子の人形を「パカッ」と開いたら、中にも人形が入っていて、それを開くとまた人形が入っている。という入れ子構造の人形ですね。
この主人公達もそんな感じで、長女のお腹の中に次女が入っていて、次女のお腹の中に三女がいて、四女がいて、て感じなんですよね。
この4姉妹のキャラクターが見た目も可愛らしいんですけど、それぞれ個性もあってすごい魅力的なんですよね。
優しくて面倒見の良い長女、冷静で戦闘力のある次女、文化系で乙女な性格の三女、ポーッとしている四女、って感じ。

そいで彼女らは、人喰い怪物なんですね。

だから長女がか弱い女の子のふりをして、獲物に近づいて、次女たちが腹から出てきて殺して食う。みたいなことをしてるんですね。

ただソ連の政府は、神や怪物だったり国の秩序を揺るがす存在というのは、いない、いてはいけない、という世界観なので排除しようとしてくるわけなんですよね。怪物達を。
なので怪物たちは人間のふりをして、バレないようにひっそりと生活をしているんですね。 正体は隠して社会的マイノリティとして、生きているってことですね。

そんな時代背景の中でマトリョーシカ達も、時代に葛藤しながら旅をしているわけです。
である吹雪の晩に、男性が一人で暮らす家に泊めてもらうんですね。その男性を食うために。
そしたらその男性も、実は連続殺人犯で、若い女性だけを狙って殺して食う。というかなりやばい奴だったんですよね。
なので、お互いに殺そうとしているとは知らずに、お互いにバレないように殺しの準備を進めるんですよね。
そんな感じで食うか食われるかの殺人劇が始まる、といった話ですね。
血もバンバン出てくるしかなり猟奇的な内容なんですけど、これが結構笑えるんですよね。
で、最後の戦闘シーンにはかなり衝撃的な描写があって、まあそれが最高でしたね。

ストーリー①

そんな感じでお互いに殺しの準備をするんですけど、四姉妹は、なんかゴタゴタするんですよね。
今すぐ男を殺すのか殺さないのかで、長女と次女が揉めだしたり、
三女は男との恋愛ロマンスに興奮しだしたり、
四女に至っては勝手に犬を拾ってきて育てる、とか言い出したりして、全然まとまってないんですよね。

で、男のキャラクターもちょっと紹介しておくと、男は怪物ではないんですね。 ただ、子供の頃に母親が異端と呼ばれるような宗教に入信していて、国が共産主義になると共に当局に殺されちゃうんですよね。
母親を失ったそいつは「もう母には会えないのかなあ」とか「神様はもう本当にいないのかなあ」とか「本当はどこかに隠れてるんじゃないのか」とかってなっちゃって、神や母の存在を探すようなイメージで人を殺して、食うようになるんですよね。 まあそれもだいぶ狂ってますね。

男の名前はアンドレイといって、普段は山奥に一人で暮らしながら人殺しをしてるんですね。

そいで、アンドレイ自体はマトリョーシカの長女に、恋のような感情を抱きながらも、ウキウキしながら殺す準備をするんですね。
で、姉妹側も三女とかは、あんなにいい男殺すのもったいないね、とかいってるんですよね。もちろん殺す気満々なんですけど。


ユカギール


なんかこんな感じの、奇妙な関係性を見ているとある民族の狩りの話を思い出したんですよね。
それこそシベリアの民族で、ユカギールという狩猟民族がいるんですね。 で、これは、人類学者の奥野克己さんの本で読んだんですけど、このユカギールの狩りのあり方ていうのが、アンドレイ達の行動に重なるんですよね。

ユカギールはエルクていう2,3メートルぐらいある、めちゃくちゃでかい鹿を狩るらしいんですけど、狩りの準備が特徴的なんですね。
まず狩猟者は、サウナに入って人間の臭いを消すと。 で、自分の狩猟者という立場を消すために日常の言葉使いを変えるそうなんですね。
例えば、エルクを「大きいやつ」と呼んだりとか、クマは「裸足のやつ」て呼んだりですね。 なので狩りに出る時も「大きいやつを見にいこう」とか「森に行ってくる」「散歩してくる」と言ったりするんですよね。

狩りの前日には、交易品で得たタバコとかウォッカとかを火に捧げるらしいんですね。 そうすると動物の支配霊、精霊というのがいるらしく、その精霊がみだらな気分になるらしいんですね。
で、狩猟者は夢の中で、そのエルクの精霊とSEXするらしいんですよね。

次の日に狩猟者はエルクの皮をかぶったりとか、エルクの耳がついた頭飾りをつけたりして、エルクのような歩き方をして狩りに出るらしいんですよね。
そしたら、雌のエルクがやってきて昨日の精霊を介した性的興奮で、近寄ってくるらしんですよね。 で、不思議なのは、その時、狩猟者の方も若くて美しい女性が踊りながら近づいてきてるように見えたっていってるんですね。で、女性が「うちにおいで」つって誘ってくるんだと。
で、その誘いに乗るか乗らないかギリギリのところで、エルクを撃ち殺したんだそうです。 逆にこのまま誘いに乗っていたら、俺が殺されていただろうって言うわけなんですよね。

なので、単に狩るもの、狩られるものの関係性ではなくて、そこには相互に狩られる関係性でもあって、性的興奮を覚える対象でもあるっていうことですよね。 このお互いの境界線がギリギリ曖昧になっている状態で、狩りが行われているっていうのは、このアンドレイや三女が抱く恋心と殺すっていう行動の関係性に通じるものがあるな、と思うんですよね。

ストーリー②

その後、近所のおじさんが来たりして、アンドレイの家に若い女の子がいるということに気づかれちゃうんですよね。
で、一人暮らしの男の家に女の子がいるのはおかしい、最近殺人事件も起きてるしってことで、その後、秘密警察に密告されちゃうんですよね。
で、NKVDっていう反乱分子とかを粛清する人たちが家に来ちゃうと。
このNKVDは、怪物にとっても人間にとっても恐怖の対象で、こいつらが来たらイコール終わり、みたいな感じなんですよね。
これはピンチだっということで、自分達が殺し合うどころじゃなくなったので、お互いに正体を明かして協力してNKVDと戦うことにするんですね。

ここから戦闘が始まるんですけど、このマトリョーシカ四姉妹、かなり強くてNKVDをガンガン殺していくんですね。
ただ最後の一人がめちゃくちゃ強くてヤバいんですよね。 そいつは一瞬で次女と三女を銃で撃って倒しちゃうんですよね。 その後、長女も負傷させれて、いよいよピンチになるんですよね。

追い詰められた長女が 「時代が変わってもこればっかしは昔話と変わらない」「私たちの存在が認められるのは退治される時だけ」つって自分が犠牲になる覚悟を決めて、アンドレイを逃そうとするんですよね。

ただアンドレイは、その長女の姿に自分の母親が殺される時の光景が重なって思い出すんですね。母親の姿を。
で、逆に長女の盾になって、攻撃を代わりに受けるんですね。
そして、そのヤバい奴の肩を掴んで抑え込むわけです。

そうしたら、ここからがヤバいんですけど、四女がピョンってヤバい奴の肩の上に飛び乗るんですね。
で「うんとこしょ、どっこいしょ」て言いながら、ヤバい奴の首を引っ張り出すんですよね。
これって、ロシア民話の「大きなかぶ」のオマージュですよね。
「大きなかぶ」て絵本で読んだことがある方も多いと思うんですけど、 おじいさんが大きく育ったかぶを地面から引っこ抜こうとするけど抜けません。
なので、おばあさんを呼んで一緒に引っ張るけどまだかぶは抜けません。
みたいな感じで、どんどん引っ張る人が増えていって、最後にはみんなの力でかぶを引っこ抜くことができました、ていうお話ですね。

で、この漫画では、かぶではなくて人の首を引っこ抜くんですよね。
これはかなりヤバいですよね。

みんなで「うんとこしょ、どっこししょ」ってかけ声合わせて、首をスポーンって引っこ抜くんですよね。
で、血がドバーッて出て、そのヤバい奴は死ぬんですけど、その時の長女と四女の笑顔がめっちゃ爽やかなんですよね。 ここは本気で名シーンだと思いますね。

盆踊り/変性意識状態

で、このみんなで掛け声合わせて首を引っこ抜く、という、このある種の同調行動って、盆踊り的なトランス効果があったんじゃないかな、ても思ったんですよね。
盆踊りとか祭りの時って、普段は関わらないような人たちと、決まった同調行動をしながら踊るわけですよね。
その時は祭り特有の一体感があって、こう言う時って他者と自分の境界が曖昧になるような変性意識状態、いわゆるトランス状態になると思っていて。
で、この体験を通すことで、人々は異なる存在と共存できる知恵を得ていたんじゃないかな、とかって思うんですよね。

ストーリー③

でもって、無事NKVDを殲滅するんですけど、アンドレイも致命傷を食らっていて今にも死にそうになるんですよね。
ちなみにマトリョーシカ達は怪物なんで、実際のところ銃で撃たれたりしても全然平気なわけで。

アンドレイは朦朧としながらも、僕を殺して食ってくれと頼むんですね。
さっきの長女の姿から母親の姿を重ねて見出したアンドレイは「もう探し物が見つかった」と言うんですね。
で「僕を中に入れてください、母さ、」て言いながら息絶えるわけです。

彼女達も悲しむわけなんですよね。 ただその一方で、みんな「グゥーーっ」て、めっちゃお腹が鳴るんですね。
で「さあみんな、食事をしましょう」って言って、アンドレイを食べるんですよね。
なんかここにもー、さっきのユカギールのアニミズム的な世界観を感じるんですよね。
食うと食われるの関係性は一方的な関係ではなくて、相互に認め合っているような、世界の循環を共に歩いているような感じというかですね。
アイヌ民族の「クマ送り」とかにも、近いものを感じますね。
まあ、今の時代の日本に生きる我々では、理解しがたい感覚かな、とは思いますけどね。

で、マトリョーシカ四姉妹はまた旅に出て、怪物達は人間と共存しながら、これからも生きていく、みたいな感じで終わるんですね。

異なるもの同士の共存のあり方

この漫画を呼んで考えさせられたのは、異なるもの同士の共存のあり方についてですね。
この漫画で描かれていたソ連政府においては、異なる存在っていうのは秩序をおびやかすので異端として排除する。
それって、ミシェル・フーコーの言う「規制権力」そのものであって、粛清によって身体を調教して精神を支配し、
また、こうあるべきという倫理観を固定化させて、言論統制をすることで精神を規制して、行動や身体を支配しているわけじゃないですか。

もちろん、今の我々の生きる時代では、このような支配ていうのは良くないよね、となってるわけですが。

で、今よく言われているのはダイバーシティ&インクルージョンとかって言いますけど、多様性と包摂、ですよね。
さまざまな異なる存在がいるということを、多様性として認め合って、社会もみんなを受け入れよう、包摂しよう、みたいな感じですよね。
これは、なんか異なる存在が共存できるような、なんかいい感じがしますよね。

ただその一方で、これは結局マジョリティ側が、マイノリティを包摂して取り込んでるいってる、とも言えるのではないか、ていう議論もありますよね。

レオ・ベルサーニ

このことについて思い返すのが、哲学者の檜垣立哉さんが、レオ・ベルサーニっていう思想家について考察している記事で。
このレオ・ベルサーニさんていうのは、クィアという社会的にはマイノリティと呼ばれる存在に関してさまざまな思考をしている方らしいんですよね。

で、この記事の一節で こういったマイノリティと呼ばれる、LGBTQの活動と、ネオリベラルな社会経済活動の相性ていうのは、悪いわけではないと言ってるんですね。
しかし人権のためであったものが、ただちに流行のファッションをベースとしたネオリベラリズムの「金儲け」に加担してしまうってことに危うさがある、と指摘されてるんですよね。

社会に包摂されるが、それは経済活動の中で消費されるということとも重なっていて、みたいな感じですかね。

で、こういうこともおっしゃられていて、
「差別」をマジョリティ社会が「包摂」するということは、 「差別されるもの」に対して寛容で充分な振る舞いをなす、 という名目のもとで、
マイノリティがマジョリティに対してもっていた「棘」を抜くことでもあるんだと。
で、まさに「包摂=インクルージョン」といえるこうした動きっていうのは、 マジョリティ側に巧く包摂されるものと、そこからすら「こぼれ落ちる」者を分断もするであろう、とあるんですね。

こぼれ落ちる、はみ出る事態というのは、無くなることはない。
これは構造的な問題である、らしいんですよね。

感想

これを踏まえて考えるのは、共存するということは包摂する側の社会が良しとすることに合わせる。
つまり視点を同じにすること、とされてるのかな?て思うんですよね。

で、もしそうなら、規制権力とはプロセスが違えど、
結果的に存在または視点がみんな同じになろうとしているのが、現代の包摂的なあり方であって「同じになることが共存の条件であるとみなされているんじゃないかなあ?」とかって思うんですね。

その場合には、さっきの必ず誰かははみ出す構造というのは無くならないわけですよね。
まあこれも、かなり僕のバイアスがかかった偏った見方なのかもしれないですけど。

ただ、そういったぼんやりした違和感みたいなのが自分の中にはあるんですよね。
まあ、じゃあどうすれば良いのかていう答えも今のところないので、本当にただの戯言でしかないんですけどね。

ただ、さっきのユカギールや、このマトリョーシカとアンドレイの関係性であったりするような、今の時代では理解しがたいオルタナティブなあり方っていうのを「知る」ということに、何かしらのヒントがあるようには思うんですよね。

はい。とまあ、最後はちょっと迷走しちゃいましたが、今回は「せんめつのマトリョーシカ」についてお話をしました。

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