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試演会振り返りレポート*大歳芽里

この記事は、大歳芽里さんの2021年7月10日、11日に開催した「クサワケテ ユケ ワークインプログレス(試演会)」の振り返りレポートです。
大歳さんは、7月10日のパフォーマンス『見ないダンス』に出演しました。

「”見ないダンス”ダンサーの呼吸(リズム)を探る」に参加して

 2021年4月17日、稽古場の多くが緊急事態宣言で閉まっていたので、伴戸千雅子さんと川瀬亜衣さんと家で練習することになった。家でも外でも稽古場としてやろうと話した。伴戸さんとの出逢いは2011年のマダガスカルで、当時花嵐という伴戸さんが所属していたカンパニーが、視覚障がいのある人とダンサーのショーイング付きワークショップを行うのに運良く誘われたのだ。その時のメモが見つかったので引用する。

 花嵐は「からっぽの身体」をテーマにやろうとしている。
事前にばんちゃんからもらった説明文には「イメージが純粋に身体と結びつき、そこにうまれる感情や感覚が身体を動かしていく」と書いてあり興味が湧いた。

 見ないダンスについて伴戸さんが説明している時、印象に残った言葉は「声が踊る」だった。身体を動かすものにフォーカスしていた10年前と違い、声に宿る身体を揺り動かすようなアプローチに心ひかれて参加することを決めた。まずは発想の元となったという土居大記さんの「アンケートパフォーマンス」を3人で試してみた。簡単にルールだけを書く。

・10秒ごとに卓上ベルが鳴る
・質問者は10秒の間に質問する 
・回答者は10秒の間にその質問に答える(答えなくてもよい)

 10秒の間に話せるのは一人のみなので、同時に話したらどちらかがやめる。この10秒というのは平均的な呼吸の長さであるそうで、質問内容も「ダンサーにはダンスについて問わない」という条件がある。まずやってみて、質問を構成することが作品をつくるという認識を得た。次の日はまだ質問を限定しないまま、研究会のメンバーと実験してみた。その時のメモだ。

   制御し知覚する身体と
   情動に突き動かされ
   思考と解離した先の
   エネルギーそのものの身体
   根源的に人を魅了し
   巻き込むのは後者である

家で3人だけでやってみた時との違いを幾つか挙げてみる。
 ・体をコントロールしない
 ・10秒という長さを気にしない
 ・ダンスを引き出す質問をする
 ・奥行きがある空間を利用する

 5月、2回ほど家で試した。質問を思いつくままに書き出したら、お互いの日常生活に関連すること、記憶にまつわること、歌、架空の設定などがでてきた。

 6月、会場のアトリエみつしまで稽古する。音響の甲田徹さんも交えて、アトリエや周辺の音の響きなどを話す。質問には場に関すること、その瞬間思うことなどが加わった。声の出し方や位置、動きの可能性を探って時間がきた。その日の振り返りメモは少し長い。

 一つの感覚を閉ざすことで別の感覚が鋭敏になる、または別の機能を失うとも言われる。実際「見ない」とした時に知覚する身体を得るために、この実験はなされるのではないと思っている。
 視覚芸術に対してのアンチテーゼでもなく、エレジーでもなくシンプルに「見ないダンス」というものがどういうものか伴戸さんはやってみたいのだという理解で、私は参加している。
 ダンス、踊るという行為、もしくは何かを起こし立ち上がらせる動きを声に置き換えるわけでもない。
 「この試みをダンスとよぶのかどうかわからないけど」というエクスキューズをして、ただ息を吸い吐くという体としてはじまる。
 日常生活を営む個(一つの記号としての存在)を引きずり、場に身を馴染ませる。人との境界を想像力でなくし、触覚を失うことで一体化して、空間を物語によって移動する。時間を刻むということに疲弊してあきらめて、私ではない何かになる。「見ないダンス」とはそういう試みであると思っている。それでも客として入ったら、それぞれ見たいものを見たとして、想像して何かを得た、または失ったと言うかもしれないとも思う。
 わからない、もっと言えばわかりあえないその瞬間起こる全ての複雑さを一つでも捉えて、自分にできる踊りとしたいのだと思う。「見ない」ことの対義語は「在る」ということじゃないだろうか。ここにある私ではなく、ここで起こっている現象や、無意識に頭に浮かんだ像や言葉、イメージ、物語を感想として聞けたら、この試みの先があるのかもしれない。
 途上にある内は多くの混乱があり可能性があり、だから稽古するのだと思うが、なんと愛おしい時間だと思う。人と会うことが自分にとって必要だと再認識したが、この見えないというフォーマットの中に心地よく身を委ねて羽をひろげられる自由さを嬉しいと思う。


 7月、構成表が出来る。流れをつくる質問をまず決めるために色々アイデアを出してきたが、答え方も台本のようなものがあれば声にも動きにも集中しやすい。その場で考えた答えの方が場に即していることもあるが、即興で考えながら声を意識し踊りにしていくのは竿だけ持って釣りにいくような心持ちだった。対話はしにくい。

 撮影で入ってくれる美術家の小池芽英子さんが稽古場に撮影下見で来てくれていた。
「どこかで発している言葉が、身体のどこかに繋がっている」と、声が響いている足先のアップや、音の装置として使われるガラス瓶越しの身体を撮っていた。記録として残す音声データを聞いてきたが、映像データを貰ったらこちらが気づかなかった視点が多くありそうだと思った。

<構成>
 ①導入− 伴戸さんがルールの説明をし、ダンサー二人が入ってくる
 ②転換− 10秒の長さの起点になる深呼吸を、ダンサーが舞台前方で行う
 ③今ここ− ダンサーがどんな人物かわかるような、見た目と性格が想像出来るような質問内容
 ④触覚− アトリエみつしまという場所は、どういう場所なのか。広さ、素材、感触など
 ⑤イメージ、触覚− 川瀬さんが匂いを手掛かりとして喚起された記憶をたどる
 ⑥リズム展開− 脈を聴くことでリズムをつくり出す。回想シーン
 ⑦転換− 架空の物語を二人が会話の中でする
 ⑧ここに戻る− 静かに動きをやめていく

 昔ドイツの劇場で観劇した作品で忘れられないのがある。ダンサーが舞台上で踊っているのだが、背景のスクリーンにはダンサーの日常が映し出されていた。子どもをあやしながら、掃除機をかけ郵便物を受け取る。どちらも映画のようにつくられた非現実感もあったが、それでもギャップに驚きダンサーに親近感が湧いた。

 姿が見えず、ましてや友達でもない人の声を聞き続けるのは集中力がいる。ダンサーがどんな人物かわかるような質問を入れようとなったのは、そこからイメージを膨らませキャラクターを想像してもらえたらという理由だ。伴戸さんと2012年から行かせて頂いている看護学校のボディワークという授業の中で、ブラインドワークを行っている。2人組になり1人が目を閉じ、もう1人が見守り役として校舎を歩いてもらう。目を閉じることは様々なことを想起させる。今回伴戸さんは目を閉じてもらうほか、眼鏡のレンズにヤスリをかけ曇った状態にしたものも用意していた。

 アトリエみつしまは西陣織の工場をリノベーションした場所で、木と漆喰で出来た壁、幾つもの桟、ポールダンスが出来そうな柱、謎の少し出っ張った空間など1階のギャラリースペースは特徴的な造りになっている。そこに音が出る小物類をぶら下げたり、置いたりしていた。縦に長く、一番奥から声を出しながら歩いてくるだけで結構距離がある印象を持たれる。また、2階は畳敷の大広間で座敷童子のようにパフォーマンス中走ったら建物の地響きが凄かったようだ。

 空間を感じてもらった後に、ここではないダンサーの頭の中の世界を覗いてもらうような流れになっている。川瀬さんの匂いにまつわる話と私の暗闇にいく話、どちらも子どもの時の記憶が強く関わっている。最初は質問に対し簡潔に答えていたが、段々と答えが曖昧になり長くなっていく。

質問:暗闇の中をどうやって進んでいきますか?
答え:くらい、、、暗い/でも、懐かしい/雨水の音/ぽつり、ぽつり/身体がだぶつく/しみわたる/何かが這い回る/みみず?/身体の上を這い回る/いたっ!/かまれる/蠅?/ブーン/羽音/頭の中ぐるぐる/痛み/身体がつっかえる/何層にも重なる地層/黒、赤、茶/ずり落ちる/列になる/ながれ/ゆるやかに/こぼれる/

 想像上の暗闇を進む中で出逢った光景の説明から、そこで得た身体の感覚から出た言葉に変わる。

 背を床に打ち付ける/何度も、何度も/足が空に文字をかく/手も文字をかく/血を擦り付けるように手をのばす/足が床を蹴り出す/前へ、前へ/水しぶきが上がる/逆転する/頭が植わって、足が生え始める/静脈/時がなくなる果てに/落ちてゆく、落ちてゆく/堕ちてゆく/息つけぬ激流/流されて/どんどん深くなって/身体を引きずって/波打って/引きずって/沼に辿り着く/頭の中の世界を夢見るように眺める/一葉の旅/吾と誰そ彼/私と彼女は振動する粒子/在り続けるからだ/先にある光/消えてゆく/消えてゆく/光の中へ

 私が発した言葉に川瀬さんは物で効果音をつけていたのを、徐々に身体を動かすことに変化させる。私から見える彼女の有りの儘をまた言葉にする。

 最後はゆっくりと二人で舞台後方から歩いて終わる。

 その後感想シェア会が幾つかのグループに分かれて行われた。普段目を閉じることに慣れていない方からは眠くなったり、自分の内側に籠りやすくなったという感想があがっていた。逆に慣れている方からは足音に個性を感じたり、踊っているのが感じられたという声もあった。アトリエみつしまのオーナーであり美術家の光島貴之さんは、自ら立ったり座ったり首を振ったりして音の変化を楽しんだと話されていた。また体感しようではなく、ただ体感するという思考に切り替えたという方もおられた。他者の身体を通して見るという体験と同時に、個々の記憶と繋がっていたり、身体感覚の一部としての視覚で身体や空間を捉えていたり、内外の区別なく一体化するような瞬間もあったのではと想像する。


 同月子どもたちと気配というテーマでダンスをした。人に触れずに声と動きで呼びかけたり、暗闇で人に近づいたり離れたりした後に、絵や言葉をかいてもらった。夏の盆の時期だったというのもありお化けの絵なのだが、とても色鮮やかで名前がついていたり特徴もあった。いたのかと訊くといたと言う。「おばけががっそうしていた」と絵の上に書いている子もいた。はっきりとしないものの輪郭を確かな形で描く前に、気配が何かを身体同士で実感しあっているのが見て取れた。


 あらためて草本利枝さんが撮られた写真を見ると、私が知覚しているよりももっと激しく踊っている。人の視線によるピリピリとした皮膚の感覚がなかったかわりに、それぞれの領域にどうやって私たちというものを届けたらよいかを考えていた。目には見えない機微を互いに察するような時間であり、そのこと自体が踊りになっていた。今も日々はその続きのように思えている。

後記:
この文章を書いた後、土居さんのパフォーマンスを映像で観る機会があった。質問者と回答者という関係性が見えたり、質問の方向性が違い、また別の作品であると思った。

小池さんが編集された映像を観たら、動きがはっきりと見えないように意図的に作られていたので、途中から更に耳を澄ませた。普段通りに話すことを心がけていたが、声をちゃんと届かせることが自分には足りなかったのだなと気付かされた。

写真:草本利枝

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