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裏で花咲く 第一幕『芽』③

 Jが既読にならない。新宿へ向かう電車の中で、私は何度目かのため息をついた。「次いつ会える?」の二日後に、「今週の土曜日は? その日なら、旦那が子供見ててくれるって言うから」。そのどちらもスルー。華麗なるスルー。既読ならまだしも未読。これは完全なる意図的、重罪であります。
 ガタン、と電車が揺れて、つい癖でベビーカーを庇おうとしてしまったけれど、そうだった、今日は二葉も一樹もいないんだったと私の右手が宙を掻く。普段あんなにも一人になりたい一人になりたいと思っているのに、いざ一人になってみるとなんだか心もとなくて変な気分。まるで、自分の半身をどこかに置き忘れて来た、みたいな。
 一樹は、今日も熱があった。保育園は無理なので病児保育を頼もうかどうしようか迷っていたら、義母が二葉と一緒に預かってくれることになった。早朝に我が家にやって来た義母は、とろけたような笑顔で孫たちに接していて、もし私の母が生きていたらこんな顔をしたのかなと思う。娘には絶対に向けなかった、こんな顔を、孫たちにだったら向けられたのだろうか。育児のプレッシャーからも躾のストレスからも毎日の疲労からも解放されて、ただ可愛い可愛いと愛でるだけで良ければ、そしたら私も、あんな顔を。
 駅のアナウンスが新宿への到着を告げて、私は人波に乗ってホームへ降りる。到着したことをDMしようとTwitterを開いてみれば、Jがつい数分前に何やら呟いていた。
 LINEは未読スルーなのに、Twitterでは呟けるんですね。
 文句の一つでも言ってやりたくてJとのDMを開いたら、やっぱり私の「次いつ会える?」で会話が止まっていて、なんだか無性に夫に会いたくなった。夫に会って、聞いてもらいたくなった。「ねぇこういう人がいてね、私のこと好きだって言ってね、何度もセックスしたくせに連絡無視するんだよ。酷くない?」
 改札を出て、東口を出て、少し歩いたところで深呼吸する。新宿の空気は、昼でも夜でも全然美味しくない。吸い込むたびに、自分が汚れていく気がして、こんな私の中から、あんなに無邪気なものが生まれてきたことが今だに信じられない。私が母親だということが、未だに信じられない。
「ついたぁ! どこいる?」
 DMを送って、再び汚い空気を肺に取りこんだ。今日は、ランチオフ。Twitterの人妻達と、女子会だ。

 女友達がね、まともに出来た試しがないの。っていうか友達だよってそう言ってくれる人たちはいるんだけどその基準がないでしょ、どこからが友達でどこからが友達じゃなくてじゃあ友達にはどこまで近づいていいかがわからないの、例えば夫婦みたいに紙切れ一枚で関係を証明できればラクなのに、私たちが信じなきゃいけないのは相手で相手の態度と言葉だけが真実で、そのぬかるみを信じて飛び込みつつ、足元の土を固めていくなんて私には無理なの、いつかぬかるんで底が抜けそうで無理なの、それならどこにも立ってないほうがラクなの、私はここにいるけどどこにも立ってない、どこにもいない。その分ね男の人はラクなの、だってちんこだから、彼らはちんこで思考するから女は性対象だから私が穴である限り彼らは私を裏切らないから。ねぇ、私っておかしい?
 そこまで一気に話をすると、ルルと緑子は「つーちゃんらしい」と笑った。実際はそのちんこにでさえ裏切られようとしてるんだけど、そこまで言うと私ばっかり好きみたいで悔しいから言わない。絶対言わない。
「でも私たちはもう友達じゃんね? 私も昔からザ・女子って感じのグループ苦手だったからわかるけど、Twitterで知り合った子たちは今までの友達となんか違う感じ」
「わかるわかる。もうリア友と話してても楽しくないもん。私も二人のことは、一生の友達だと思ってるからねー!」
 だから、その友達って言葉がわかんないって話をしていたんだけど。そう思ったけれど、二人が楽しそうにキャッキャし始めたので水を差すのはやめておく。もしかしたら本当に、私が今まで出会えてなかっただけで、この二人は『ちゃんとした』女友達になりえるのかもしれない。いや、もうなっているのかも。
「なんかさぁ、こないだのオフ会も楽しかったんだけど、やっぱこうやって気の知れた友達だけってのもたまには必要だよね。旦那の愚痴も言いたいし、子育ての悩みも相談したいし」
「わかるわかる。あと義母の愚痴とママ友の愚痴ね」
 緑子の言葉に、ルルが「それー!」と大声を出した。ベビーカーで大人しくしていた緑子の赤ちゃんが、その声にびくっと反応して顔を歪める。
「あー、ほらほら、ごめんね、おばちゃん声が大きかったよねぇ」
「いや本当ごめん。起きちゃった?」
「ううん、ずっと起きてたから。最近もう寝ないんだよね、体力ついてきたみたいで」
 確か二葉と同じ月齢だった気がする赤ちゃんを、緑子が抱き上げた。「あ、おしっこしてるかも。変えてくる」と緑子がお手洗いに消える。
「いいなぁ。あのくらいの時期が一番可愛いよねぇ」
「そうなの?」
「そうだよう。うちなんてもう小学生でしょ。息子だし、もうね、可愛げもひったくれもありゃしない」
 ルルが笑いながらコーヒーカップを手にする。小学生、というその響きが酷く途方もないものに聞こえて眩暈がした。一樹が小学生になるまであと三年。でも、そうしたら次は二葉が三歳。私の母親人生って、一体いつ終わりを迎えるんだろう。
「そういえばこの間、かのんちゃんって子とシノミヤちゃんって子に会ったんだけどね」
「ああ、知ってるかも。どうだった?」
「うん、なんか、かのんちゃんは子供いないし、シノミヤちゃんは結婚してないし、なんかこう、楽しそうだなって思った。毎日へらへらしてるんだろうなって」
 ルルが笑いながら「その言い方やめなよう」と肩を叩いてくる。「色々あるんだよきっと、立場が違う人たちにも」
 そうなのかなぁ。私には、あの人たちは苦労してないように見えた。きっとあの人たちはママになっても、苦労しないんだろうと思った。きっと何事も、私ほど苦しまずに上手くやる。絶対そう。あんなふうに人生の『楽しい』だけを吸収して生きていけたら、どんなにいいだろう。でも私には無理。私はどうしても『苦しい』だけを吸収しちゃう。
 戻ってきたルルが「ねぇみんなのところってまだある? その……夜の営み?」と聞いてきた。「あるけど全然。旦那がしたい時に、流れ作業でって感じ」と答えた緑子に、「そうだよね、うちもそんな感じ。求められたら答える、みたいな」とルル。
「つーちゃんとこは?」
 聞かれて、非常に困惑した。いつも私から誘ってるんだけど、それっておかしい?

 帰りの電車の中で指折り数えてみたら、はっきりと大輔に誘われたと覚えているのは、一樹が生まれてから三カ月後のセックスの時だった。やっと生理が来て、ああちゃんと生理が来たって安心したのと同時に、ああまた私の体は子供を身ごもる準備を整えてしまったんだと絶望したからよく覚えている。ちょうどその一週間後に大輔に求められたから、彼は私の生理が来るのを待っていたのかもしれない。その日のセックスは、切開した傷が痛みそうで怖かったのと、またすぐ妊娠してしまうのが怖かったのとで、正直あまり気持ちよくなかった。
 大輔は、なんで私を誘わなくなったんだろう。家事と育児と、Jとのセックスに追われて全く気が付いていなかったけど、三年近く嫁を誘ってこない旦那ってどうなの? それでいいの?
 家が近づいてくるに連れて言いようのない怒りがふつふつと湧いてきて、私はその怒りをどうにもできないまま玄関を開けた。「ただいま」と言っても義母の声がしない。それどころか、一樹と二葉の声もしなくて、もしかしてみんなして寝ちゃったのかななんて思いつつリビングに向かうと、薄暗い部屋の中で大輔が待っていた。
「お帰り」
「……え? どうしたの? 仕事は?」
「早めに上がって来た」
「そうなんだ? お義母さんは? 一樹たちと出かけたの?」
「うん、実家に行ってもらった」
「は?」
 座るように促されて、大輔の向かいに腰をかける。そこで、気づいた。目の前に、紙が置いてある。ペラッペラで薄い、だけどものすごく重量感のある、それ。離婚届。
「離婚してほしい」
 何が起こっているのかわからなかった。私は今日、帰ったら義母にお礼を言って、一樹と二葉を抱っこして遊んで、「ついでに夕飯も作っていくわよ」なんて義母の言葉に甘えて、夕飯の支度をサボって一樹と二葉と遊んで、それで大輔が帰ってきたら聞こうと思ってたんだ、「私とセックスしたいと思う?」って、聞こうと思ってた。「子供を作る目的以外で、私とセックスしたいと思う?」って。なのに何だこの紙は。何が起こってるんだ。
「母には全部説明した。一樹の熱が下がらないことも、それでも翼が飲みに出かけることも、今までどんなふうに生活してたかも、全部。そしたら子供たちを預かってくれるって。離婚したら、俺も実家に帰る。帰って、母に手伝ってもらいながら二人を育てる」
「……何言ってるの?」
「だから、離婚を」
「返して」
 大輔の、表情が変わった。ああそうだこの人はいつも私の中の細い糸が擦り切れそうになると必ずこうやって怯えた顔をして、それが私をますます逆撫でするんだ。そうだそうだ。この人はいつだって、私のことをこういう顔で見る。
「返して私の子供だよ。返してよ!」
 鞄をテーブルに投げつけると、寝室に走った。寝室のドアを開けた。物置と化してる『将来の子供部屋』、物置と化してる『大輔の仕事部屋』、お風呂場、トイレ、全部のドアを開けて探す。返してよ、どこに行ったの、いるんでしょ、返してよ。
「翼、ちょっと落ち着いて。落ち着いて話を」
「だから返してって言ってるでしょ私が育てる私の子供だよ」
 大輔に肩を掴まれて、思い切り振り払った。違う。私が思い描いていた将来と違う。違う道をこの人に歩まされた。子供なんていらないと思ってたのに子供のいる未来を歩まされた。なのに今度は、私からそれさえ奪い取ろうとする。
「離婚したいならすればいいじゃん勝手にしなよ、でも一樹も二葉も私が育てる、絶対渡さない」
「だから翼には無理だって。自分で言ってたろ、一人で子育ては無理だって」
「だから大輔がいるんでしょ!?」
 玄関に向かおうとする私を大輔が抑える。「離して!」何度叫んでも大輔は手を緩めない。痛い。なんで男って力ばっかり強いの本当に信じられない気持ち悪い。
「離してってば一樹と二葉を迎えに行くんだから! 離せバカふざけんな!」
「わかった、とにかく話をして、迎えに行くのはその後だから」
「離せってば!」
 思い切り暴れると、肘が大輔の目元に当たった。手が緩んで、そこから逃げようと思い切り体を突き飛ばすと、なぜか大輔じゃなく私が転んだ。痛い。ふざけんな。ふざけんなよ。
「……病院、行こう。翼おかしいんだよ、ちょっと疲れてるんだって」
 片目を抑えながら、大輔が唸るように呟いた。ほら、都合が悪くなると今度は人をキチガイ扱いだ。切れる。切れる。切れる。糸が切れてしまう。お願いやめて、
「お前、最近Twitter見てるだろ? そんなもん見るからおかしくなるんだよ、あんなのまともな人間はやらないんだって。だから、それも辞めて病院に」
 ぷつん。自分の中で糸が切れる音がする。いつもいつも、些細なことで切れる細い糸。私はその糸が切れる度、死にそうな気になったし自撮りをTwitterに載せたしTwitterの男と寝た。何度も結び直して、その度に私はまだ大丈夫だと安堵して、それでなんとかやってきてるのにこの男はこうしてすぐに私の糸を切る。なんなんだ。死んでしまえ。私が死ぬ前にお前が死んでしまえ。お前がお前がお前は私をただの子作りの道具としか見てないくせして。
「二人で育児するって言ったじゃん」
 ありったけの大声で叫んだ。なんかもう絶叫に近かった。私絶叫マシンに乗ったってこんな大声出さないよ、セックスしてたってこんな大声出さない、でも大輔といるといつも叫びたくなる、いつもいつも叫びたくなるもう涙なんて一滴も出ないのに。
「私頑張ってるよいつも頑張ってるんだよ、そっちじゃん頑張ってないのはそっちじゃん父親のくせに、それがつらいからTwitterするんだよそれなのにまともじゃないとか信じられないまともじゃないのはお前のほうじゃん死ね」
 涙なんて、随分前に、もう枯れ果てた。
「死ねとか言うな、それがおかしいんだって気付いてないなら本当におかしいよ」
 大輔の冷静さが癪に障る。うるせぇ死ね、死ね、返せ、死ね、うるせぇ、お前なんか、お前なんか。玄関にあるものを手当たり次第に投げつけていたら、もう投げつけるものがなくなった。大輔に掴みかかって頭を殴る。一回、二回、
 直後、頬に痛烈な痛みがあった。視界が反転すると同時に、背中と後頭部に鈍い衝撃が走る。押し倒された、と気付いた時には、大輔が私の上に馬乗りになっていた。
「あんま調子乗んな」
 押さえつけられていて、手が動かない。抵抗したいのに、すごい力で抑えつけられていて、ピクリとも動かせない。憎い。私は、生涯を共にすると誓ったこの人が憎い。
「……俺も、しばらく実家で過ごすから。頭冷やして。俺も冷やすから」
 大輔は、緩慢な動作で私の上から退くと、そのまま家を出ていった。痛い。床に打ち付けた後頭部が痛い。大輔に平手打ちされた頬が痛い。心臓が、痛い。
 冷たい床に寝ころんだまま、ポケットに入れていたスマホを取り出した。このまま、どうにかなってしまいそうだ。助けて、助けてJ。
 Jに送ったLINEは未読のままで、Twitterを開けばJは呟いていて、ねぇ、なんで連絡くれないの、あなたは今誰とセックスしてるの。ねぇ、J。あなたは、一体誰なの。
 どうしても誰かに連絡したくて、LINEを漁るけど友達なんて一人もいなくて、Twitterを開いて、ルルと緑子とのグループDMを開く。それと同時に「今日は本当にありがとね~!」という一文が、届く。
 ねぇ、誰かに助けを求めたいけど、私は誰に助けを求めたらいいんだっけ。気の知れた友達ってなんだっけ。
「こちらこそありがとー!」
 なるべくいつも通りに見えるように、なるべく『翼』ではなく『つー』に見えるように、気を張りながら返信する。すると、ルルから立て続けに連絡が来た。
「ねぇつーちゃんさ、越野さんのオフ会来れない?」「緑子が行けないかもらしくて、つーちゃんが一緒に来てくれたら楽しいなって。お子さん預けられればだけど」
 私はしばらく考えて、「行く」と返事をした。その頃には、別居が解消されてるといいなと、ぼんやりと思いながら。

🔁ハルさんがリツイート
人妻つー @tsuchan_2chan ・ 1時間
旦那と喧嘩して殴られて、唇切れたぁ。
誰か舐めて治してくれない…??
(写真載せようかと思ったんだけど
血が出てるのでやめておくね。痛いよ~!)
💬47   🔁2   💛13

裏で花咲く 第一幕『芽』④ へ続く


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