見出し画像

幕間~裏垢~ かのんの場合

 人は人生のうちで、何度セックスをするんだろう。そんなことを考えていたら、トイレに立った彼があっという間に戻ってきた。グラスがもうすぐ空きそうだから、もう一杯ハイボールを頼んでおこうと思ったのに。気の利く女を演出したいという私の気持ちは儚くも無残に砕け散り、私はせめてと笑顔を作る。「何飲みますか?」そう言いながらメニューを渡すと、彼は「いや」と小さく言い淀んでから、私を見た。
「そろそろ、行こうか」
 店員さんに会計をお願いする彼の姿を見ていたら、なんともいたたまれない気分になった。彼とこうして時間を共にするのはもう三度目になるというのに、私はいつまでも処女のようなうじうじした気持ちで、そうして自分を正当化しようとしている。もういっそのこと大声で言ってしまいたかった。私と彼はこれからラブホテルに行くんですよと、店内に響き渡るような大声で言ってしまいたかった。私たちの隣に座るカップルも、カウンターでいちゃいちゃしてるカップルも、きっと家に帰ってからセックスをするんでしょう。でも違うんです、私と彼はラブホテルに行くんです。だって、だってね、私と彼は付き合っていないので。

 店を出て少し歩けば、もうそこはネオンきらめく新宿の歌舞伎町で、彼と会う時にしかここに来ない私には、まだその光は眩しすぎた。
「まぁ、どこに入っても一緒なんだけど」
 彼は私の斜め前を歩きながらそう言った。姿勢がよくて引き締まった彼のその体を、後ろから眺められるこの時間が大好きだった。歩いている時の後姿というのはベッドにいる時より何より無防備だと思うのは私だけだろうか。少し歩幅を緩めた彼は、そうして一軒のホテルに入っていく。
 二つしか空いてない部屋を選ぶのも、エレベーターに乗るのも、部屋に入ってジャケットを脱ぐのも、全てがスマートだった。この人は一体人生のうちで、何度セックスをしたんだろう。
「何してるの」
 それが、多分いつもの合図だった。おずおずと彼の腕の中に飛び込むと、彼は力強く私を抱きしめてくれる。彼の鼓動がここまで大きく聞こえるということは、きっと私の音も聞こえてしまっているんだろう。期待と期待と、ちょっとだけの不安。いつもこの不安定な気持ちを抱えて、私は生きている。
 しばらく抱き合ったまま黙っていた彼は、ふと頭を撫でてキスをしてきた。こうやって、思い出したかのようにセックスを始める彼の余裕が、憎らしくて好きだった。
 穴が開いた。彼のもので、私の中に大きな穴が開く。きっと明日からまた、私はこの穴を思って、彼の指や視線を思い返して、ひとり空想に耽るんだろう。
 埋めてもらっている時が、私は一番安心する。埋めてもらっている時にだけ、私は私でいられる気がする。
「やっば」
 そう言って私を見下ろした彼の熱を帯びた視線が、私を貫いて、少しだけ濡らした。

 今日も楽しかった。またね。
 彼からのDMを見返して、何度目かのため息をついた。仕事に集中しなくちゃいけないのに、パソコンに向かい合った瞬間にスマホが気になり始め、手に取っては彼のDMを開き、アカウントを開き、ああ今日も呟いてるなぁいつも通りだなぁなどと思いながら、DMには何か返信するべきか、するとしたら何だろうと考えているうちにあっという間に時間だけが経っていく。
 彼と初めて会ったのは、数か月前のことだった。Twitter上では交流もあったので「飲みに行きましょう」というDMをもらった時私は何の疑いもなく二つ返事で了承をしてしまったけれど、実際会って危険はないのかと不安になった。約束の日が近づくにつれて、その不安は大きくなった。
 嫌なことを、忘れるために作ったアカウントだった。嫌なことを嫌と言って、好きなことを好きと言って、したいことをしたいと言うためだけの、アカウント。それだけのつもりだったのに、まさかこうして人と会うことになるなんて。
 指定された時間に指定された店に行くと、普通の人がいた。アイコンの芸能人に似ているような、似ていないような、よくわからないけど普通の人。いつもよりお洒落をしてきた服とかメイクの分だけ勝手にプレッシャーを感じていた私は、拍子抜けして、そして、普通に飲んだ。楽しく飲んだ。
 その後は、何がどうなってそうなったのかいまいち覚えていない。でも彼と話していて楽しかったのは確かだし、ここ最近の沈んでいた気持ちも一気に回復した。気づいたらホテル街を歩いていて、私はああやっぱりそういうことかと思ったのだ。やっぱり私は「そういう場所」に身を置いていたんだ。
 女に考える隙を与えない男が一番モテるとかモテないとか、誰かのツイートで見た気がする。彼はきっとこういうシチュエーションに慣れているんだろうと思いながら、それでも私はニコニコついていった。まぁいいや、どうせ、減るもんじゃないし。
 だから、まさか自分がここまでハマってしまうなんて、思いもしなかった。まさか二度目があるなんて、思いもしなかった。女は一度抱かれれば相手を好きになると言うけれど、それは絶対に都市伝説だと思っていた。でもさ、だってさ、毎日ツイート見るじゃん。感情移入ぐらいするじゃん。
 こんなことなら、もっと遊び馴れていれば良かったと、そうすれば一人の男に固執するなんてことなかっただろうと、最近そんなことばかり考える。支障が出ている。彼と出会ったことで、私の生活に支障が出ている。
 私も楽しかったです。また会えるのを楽しみにしています。
 散々考えあぐねいて、結局はそんな愛嬌の欠片もない文章を送った。誘われなければ終わり、誘われても、きっと一回予定が合わなければ終わりになってしまうだろうこの関係を、私は、いつまで続ける気でいるのだろう。そう思ったら、逆にもっと強気で行ってもいい気がしてきた。
 ちなみに、来週の金曜日はどうですか?
 勢いで打って、読み返しもせずに送信した。心臓がバクバクしているし、なんだか頭がふわふわする。私から誘うなんてことは初めてなので、彼がどう思うのかそればかりが気になった。昨日の今日でもう既に会いたいと、言ったら彼は引くだろうか。科学は日々進歩しているのに、他人の心を覗く道具が存在しないなんて信じられない。
 昨晩空いたばかりの穴が、今もまだ疼いていた。彼の手の動きと視線と、息遣い。そのどれもが鮮明に私を包み込むのに、やっぱり心は満たされなくて、ただ自分の膣だけが満足したと嘲笑っている。私はもう、だいぶ遠くまで来てしまった。昨日見上げた見慣れない天井を思い出しながら考える。今ならきっと後戻りできる。息ができなくなる前に、早く、早くどうにかしなくちゃいけないのに。

「今日はなんか、やけにスマホ見てましたね。デートですか?」
 仕事終わり、退勤のカードを切ったところで後輩の女の子が声をかけてきた。彼女は人の恋愛話が大好きで、何でもすぐそっちに繋げたがる。それが悪いとは言わないけれど、触れられたくないことにも触れられてしまうのも確かだ。そんなことより、私はそんなにもわかりやすくスマホばかりを見ていただろうか。既読がなかなかつかないからと、ずっと仕事に集中できずにいたことを、深く反省しなくてはいけない。
「全然そんなんじゃないんですよ。ただちょっと、集中出来なくて」
 当たり障りのない受け答えをしながら、私は彼女とエレベーターに乗った。確か彼女は私と同じ方面だったから、乗り換えまでの四駅を彼女と一緒に過ごさなくてはいけない。
「ええー、でも先輩の顔、恋する女そのものでしたけど。違うのかぁ。ねぇだったら、来週の合コン来ません? 女子が一人足りなくて困ってたんですよ」
 職場のエレベーターだと言うのに、この子はよく喋る。時折混ざるタメ口にはもう慣れたけど、一緒にいすぎると辟易するタイプなのも確かだ。
「うーん……でも私は」
「先輩かわいいから、きっと大丈夫ですよ! 来週の金曜日! ね、来ましょう?」
 来週の金曜日。ドキッと鼓動が跳ねた。また彼のことを思い出してしまって、私は心臓発作でも起こしたかのように胸が苦しくなる。
「えっと、来週の金曜日は……ちょっと予定が入るかもしれないから、わかったらまた連絡するね」
「えー、そうなんですかぁ。来てほしいのになぁ」
 彼女はしばらくぶーぶーと不平を漏らしていたけれど、それもやがて仕事の愚痴に変わっていく。やれ何々さんがどうの、やれ何々さんがどうした。この子はいつも自分以外の誰かを中心に生きて来たんだろうなぁと、その感受性の良さから伺えた。対して私は自分が好きだと思ったことにしか興味がない。好きじゃないものはひたすらに受け流せるのに、好きなものにはとことん打たれ弱い。
 適当に話を聞き流しながら窓の外を見ていたら、残り一駅というところで彼から返信が来た。スマホの画面に写った、「その日は仕事の飲み会だ、ごめん」という簡素な文章。
 予定の代替え案も来なかった。代わりにこの日はどう、なんて言われたら、私は喜んで、例えそこにどんな予定が入っていたとしても喜んで都合をつけて、そうして再び彼の前で裸になったはず。自分を曝け出せもしないのに、体だけは曝け出して、自分の思いも願望も欲望も全てぶつけられないままに彼を求めたはず。
「金曜、合コン行けそう」
 気付いたら、そう呟いていた。なんでこんなことを言ってしまたんだろうと後悔した時には既に遅く、横に立っていた感受性の塊は手を叩いて私の合コン参加を喜んだ。
 彼にフラれた腹いせに、行きたくもない合コンに行く。私も大概感受性が豊かだし、やっぱり好きなものにはとことん打たれ弱い。なんとなく、彼にはもう二度と会えないような、そんな気がした。

 結論から言うと、私は彼に会えた。いや、会ってしまったと言うほうが正しいかもしれない。合コンに向かう新宿の喧騒の中、私は彼のことばかり考えていて、メイクを直すのさえ忘れて店に入ってしまって、だから、洒落たバーカウンターに座る彼の姿を見た時はきっと幻覚だなどと思った。
 彼が座っていた。女と座っていた。
 彼は女と身を寄せ合うようにしてひそひそ会話を繰り返していたから、私には気付かなかったみたいだけど、時折笑い声を漏らし合う二人が親密な仲なのはすぐにわかった。
「先輩? どうしたんですか?」
 感受性が、立ち止まったまま動かない私を振り返る。やめて私のことを呼ばないでと祈りながら、慌てて彼女の後に続く。
 私が彼の唯一だなんてうぬぼれてたわけじゃない。彼には彼の人生があって、私には私の人生がある。たまたま、偶然、セックスという点でそれぞれの線が交わっただけで、Twitterというツールを通して交わっただけで、本来なら交わらなくてもよかったはずの人生たちだ。そんな風に自分を納得させていたら、合コンの自己紹介を聞き逃してしまった。「先輩の番ですよ!」と、感受性が横から私をつつく。
「あ……えっと、よろしくお願いします」
 自分の名前が思い出せない。正しくは、自分の苗字が思い出せない。目の前に並んだ男五人は誰も彼もがみな一様にじゃがいものような顔をしていて、私はやっぱり好きじゃないものを受け流す能力があると確信した。
 耳をそばだてているわけでもないのに、時折聞こえてくる彼と女の笑い声が耳障りだった。彼は結局テーブル席に座る私には一度も気が付かずに店を出ていった。私は新宿のこの喧騒の中、どこにいたって彼を見つけ出す自信があるのに、彼はこんなに近くにいても私の存在には気付かない。
 ああなんて、私はバカなんだろう。
 自分の名前が思い出せない。正しくは、苗字が思い出せない。私は一体、こんなところで何をしているんだろう。

 何人かが連絡先を交換しようと声をかけてきたけど、どれも丁重に断って店を出た。私のその態度に感受性はもちろんその友達も困惑した様子で、私は来週職場で会ったら彼女になんてお詫びをしようかとそればかり考えていた。
 玄関に鍵をさして、開けて、家に入る。期待と期待と、ちょっとだけの不安。こんな気持ちを抱えるだけ無駄だとわかっているのに、どうしても期待するのをやめられなくて、「お帰り」という言葉が聞こえてくるような気がしてやめられなくて、そして今日も彼はいなくて私は撃沈する。
 鞄を置いて、ソファに腰かけた。いつもの癖で、Twitterを開く。見慣れたタイムラインには今日も雑多な感情と欲望が渦巻いていて、規則正しく指をスクロールしてみても、何一つとして言葉が頭に入ってこない。みんな、何か別の言語を話しているみたい。
 自分の名前が思い出せない。アカウント名しか思い出せない。
 軽い気持ちで始めてしまったTwitterだけど、そろそろ潮時かもしれない。自分のアカウントのページを眺めて、おどろおどろしく赤い文字で書かれた「アカウント削除」の文字を見つめる。
 さよならを言いたい相手っていたっけ。初めましてを言い合った人は何人もいたけど、こうして改めて考えると、全員ただの通行人だ。私の人生を通過して、あるいはその人の人生を通過して、ただすれ違っていくだけの、見えない誰か。
 削除のボタンを押しかけた瞬間、スマホが震えた。着信だった。そこに表示されている名前を見て、私は心臓を吐き出しそうなくらい驚いた。いや、多分吐き出した。
「もしもし」
 電話に出ると、しばらくの沈黙の後、「もしもし」という声が聞こえた。聞きなれた、喉に引っかかる少し掠れた低い声。私を何度も愛してると言って、そしてすれ違っていった、声。
「どうしたの?」
「…………」
「ねぇ」
「…………」
 沈黙が怖い。いよいよかもしれない。いよいよ私は彼から、別れを切り出されるのかもしれない。
「……ごめん、やり直したい」
 ぽつりと、小さな声だった。それから彼は、家を出てからずっとカプセルホテルで寝泊まりしていたこと、もう相手とは一切会っていないし連絡も取っていないということを告げた。
「ごめん、やり直したい」
 もう一度小さく呟く彼に、私はなんとか、一言だけを絞り出した。
「……もう浮気しない?」
 涙声で頷く彼は私がとことん好きだった彼で、ああそうだ私は今、彼の苗字を名乗っているんだったと思い出した。お願い私をひとりにしないで、家に帰ってきて私を出迎えて、あなたは私の夫なのだと胸を張って言わせて。タイムラインに並ぶ私の「セックスしたい」は、多分、全部この感情の裏返しだった。
 電話を切って、夫の帰りを待つ間、私はもう一度Twitterを開いた。DMが一件届いていることに気付いて開封すると、それは彼からのDMだった。
「来週の金曜日なら、いけそう」
 そのDMに、私はやっぱり二つ返事で了承した。

かのん @kanonnn_ura ・ 2時間
高校生の頃、彼氏からお揃いのストラップを
もらってから「お揃い」が好き。
お揃いの時計に、靴に、待ち受け画像。
でも私が一番欲しかったのは、
あなたとお揃いの苗字でした。
💬7   🔁2   💛59


・幕間~裏垢~ ゆめ子の場合 へ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?