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幕間~裏垢~ 人妻つーの場合

 浮気を疑うのは、浮気をする人間だけよ。母は、小学生の娘にそんなことを言うような人だった。父は厳格な人で、母の外出さえ許さないような人で、そのくせ自分は外で女と遊び歩いていた。
 浮気を疑うのは浮気をする人間だけよ。だから、あなたは浮気を疑わない人を選びなさい。あなたを疑ってこない人を選びなさい。
 繰り返し繰り返し、何度も言い聞かされているうちに、私は浮気を疑わない人しか選べなくなった。私の付き合う人はいつも、真面目で、真っ直ぐで、平凡だった。
 母は私が大学生の時、四十七歳で死んだ。大腸癌だった。彼女の遺品を整理していたら、古い写真や手紙が出て来て、私は知った。あの当時、母も不倫をしていたのだと。

「一樹(かずき)! 髪乾かさないと風邪ひくでしょ、待ちなさい、こら」
 脱衣所から裸のまま逃げ出した一樹を呼び止めるも、「やだー!」という声が返ってくるだけだった。寝室のドアを開ける音がして、やばいと下着にTシャツだけを身につけて駆けつけてみれば、やっぱり二葉(ふたば)のベビーベッドに手をかけていた。
「一樹、ダメ」
 寝ている二葉を起こさないように、なるべく抑えた声でたしなめる。けれど一樹は、聞いているのかいないのか、がんがんとベッドの柵を揺らし始めた。まただ、と私はため息をつく。柵を揺らして二葉を起こすのが、最近の一樹のマイブーム。目を覚ました二葉がああーと大声で泣き始めるまでに、そう時間はかからなかった。
 なるべく力ずくで止めないで、言い聞かせるようにしてるんだけどなぁ。そう思いながら、まだ柵を揺らしている一樹を抱き上げ、ベッドから引きはがす。三歳になったばかりの我が子の体重が、日頃の育児と家事で疲弊した腰に追い打ちをかけてくる。
「ねぇ一樹、どうして二葉を起こすの? 寝てたんだよ?」
 暴れる一樹に服を着せようと格闘するも、一樹がやだやだを繰り返すせいでなかなか上手く行かない。やだやだの数だけ、二葉の泣き声も大きくなっていく。今日は二葉が早めに寝付いてくれたからと、一樹をお風呂に入れたからいけなかった。やっぱり全部、大輔に任せるべきだった。
 ガチャン、と音がして、一樹は「お父さんだ!」と玄関へ駆け出す。服を持ったまま二葉を抱き上げ後を追うと、大輔が「ただいまー」と一樹を抱き上げているところだった。
「なんだ、まだ服着てないのか」
「全然着ないんだもん、よろしく」
 服を手渡すと、大輔は「手ぐらい洗わせてくれよ」とぶつぶつ言いながら、一樹に服を着せ始めた。
 夫は、浮気を疑わない人だ。真面目で、真っ直ぐで、平凡。たまに残業で遅くなることはあるけれど、こうして大体定時に上がってきては育児を手伝ってくれる。まぁ、私がそうしてくれと頼んだんだけど。
 再び眠りについた二葉をベッドに寝かせると、服を着て、メイクを始める。もう時間がない。急がないと。
「ドライヤー貸して」
 一樹の頭を乾かし終えた大輔にそう声をかけると、彼はドライヤーを手にしたまま眉をひそめた。
「何その格好。今日もどこか行くの?」
「前から言ってたじゃん、友達と飲み会だって」
「そうだっけ」
「本当、人の話聞いてないよね」
 一樹は楽しそうに、お父さんお父さんとおもちゃを持ちだしている。私が言っても服も着ないし髪も乾かさないくせに、お父さんの言うことはよく聞くんだからたまったもんじゃない。
 私にだって、息抜きが必要だ。24時間365日母親をしていたら、死んでしまう。絶対に死んでしまう。
「じゃあ、行ってくるねー」
 ヒールをひっかけながら声をかけると、大輔は一樹をリビングに置いたまま玄関までやってきた。
「……あのさ、俺もお前に息抜きが必要だと思って別に何も言わなかったけどさ、にしても最近多くない? 不安じゃないの?」
 ヒソヒソと声を潜めて言われ、私は首を傾げる。
「不安って、何が」
「子供たち残して、飲み歩いてることだよ。不安にならない?」
 意味がよくわからない。だから私は、大輔が帰ってきてから出かけるのに、何を不安になることがあるんだろう。母親が子供たちを見ていないことに対して? 子供に何かあるんじゃないかって? 一樹なんてとっくの昔から保育園に通っているのに、血も繋がっていない保育士たちに任せきりだというのに、この人は今さら何を言ってるんだろう。
 大輔の言葉は適当に流して、家を出た。心なしか足が軽い。一人で歩けるってやっぱりいい。最高。
 新宿方面への電車を待つ間、自撮り写真を取って、加工して、Twitterに載せた。なんて書こうか悩んで「今から90年組でオフ~♡ わーい♡」と打つ。
 母親にだって、息抜きが必要だ。私は、こんなところで死にたくない。

「あっ、つーちゃん来た来た! こっち~!」
 お店につくと、もうみんな揃っていた。きゃーっと女子陣とハグし合うと、ちょうどドリンクがやって来る。
「つーちゃんのも頼んどいた。ウーロン茶でよかったもんね?」
「うん助かる! ありがとう!」
 ウーロン茶を受け取りながら、私がお酒を飲めるようになる日はくるのかなぁなんて考える。もうすぐ六カ月になる二葉の授乳を終えるのがあと一年後だとして、子供は絶対三人欲しいと言っていた大輔が、ちょうどその頃また子作り子作り言い出すんじゃないかと不安になる。
「私、一人じゃ子育てできません。それでもいいですか」
 それが、結婚を前提にと私に告白してきた大輔への返答だった。大輔が困惑したような表情を浮かべていたので、元々子供が好きではないことや、両親の不仲を見て育ったこと、できれば一生仕事を続けていたいことなどを語った。
「二人で子育てするから、それじゃダメかな?」
 結局、大輔に押し切られる形で私たちは交際を始めた。その一年後、入籍した。お腹に一樹ができたのだ。
 そうして、私は私が意図していなかった人生を歩むことになった。私が結婚を後悔したのは、産院を退院してすぐだった。だって大輔が仕事に行っている間、どうやって一樹の面倒を見たらいいのかがさっぱりわからない。インターネットで調べたり、向こうのご両親に手伝いに来てもらったりしながらなんとか一歳になるまで乗り越えて、保育園に入園させた。「まだ小さいのに」と反対する大輔の気持ちがわからなかった。私は「こんなに成長したのにまだ一歳なんだ」と感じていた。
 二人で子育てをするから。その大輔の言葉を思い返しては泣いた。これのどこが、二人で子育てなんだろう。もう絶対、子供なんか育てたくない。なのに大輔は、子供は三人と言って譲らなかった。
「ねぇ、つーちゃんとこっていつも誰がお子さん見てるの?」
 唐突に尋ねられて、一拍返答が遅れる。
「あー……うちは主人が。仕事終わってからは見てくれるから」
「えーっ、すごい羨ましい!」と女子陣から声が上がる。対して男性陣も「いい旦那さんだわ」と口をそろえる。私は「そうかな」と答えつつ、ウーロン茶で喉を潤した。なんだか、急激に喉が渇いた気がした。いい旦那さん。そうか、いい旦那さんなのか。
 これでもう五度目になるオフ会は、誰かがいたりいなかったりするけど大体固定の人ばかりで、いつもくだらない話で大爆笑し合っては最終的にただのセクハラ大会になる。やれ誰と誰がセックスした、という話題が持ち上がったと思えば、誰かがこういうプレイに最近ハマってると再現し出して、気付いたら誰と誰がいない、あいつらセックスしてるなとか、本当にくだらないし、どうでもいい。でも、それが心地いい。
 いつものようにきっちり二時間飲み放題で解散したあとは、私は二次会には行かず、駅へ向かった。
「つーちゃん、門限ないんでしょ? たまには二次会行ったらいいのに」
「でもあそこ、独身の人ばっかりじゃん。肩身狭い」
 一緒に駅に向かった彼女には、確か、子供がいない。でもいつも早めに帰るってことは、ご主人が厳しいのかな。うちとは違うな。
 新宿は、水曜日だというのに人に溢れていた。一体どこからこんな人数が沸いてくるんだろう。一体このうちの何人が、私が二児の母であることに気付くんだろう。
 中央線に乗るという彼女と別れて、私は山手線に乗る。五反田で降りて、東口を出て、歩道橋を渡る。そのあたりで、歩幅を緩める。
「今日は早いね」
 振り返った先に彼がいて、そう声をかけた。
「うん、一本後にすぐ乗れた」
 私を追い抜いて、そのまま歩いていく彼についていく。浮気を疑うのは浮気をする人間だけよ、という母の言葉が蘇る。
「さっき、みんなに合わせていい旦那さんとか言ったでしょ」
「本当にそう思ったんだよ、いい旦那だなって」
「それに比べてこの嫁はって?」
「そんなことを言ってないでしょ。思ってたら来ない」
 彼が笑う。一樹のやだやだと、二葉の泣き声が、遠ざかっていく。
 浮気を疑うのは浮気をする人間だけよ。
 夫は、浮気をしない。だから私は、一生疑われない。

 昨日の自撮り写真は700ほどのファボがついた。50件以上あるリプを全部見て、相互からは20件くらい、その一つ一つに返信していく。
 ふと見下ろすと、二葉はおっぱいを咥えたままウトウトしている。このままそっとしておけば、完全に寝るな。なるべく体を動かさないように、スマホで文字を打つ。
「それ、置けば?」
 そう声をかけられて初めて、大輔が帰ってきていることに気付いた。「一樹は?」そう聞かれて寝室を顎でしゃくる。一樹の寝顔を確認した大輔は、そっと扉を閉めながら私を見た。
「なんかさ、具合悪そうじゃない?」
「え、疲れてるだけだよ。いつものことだけど」
「いや、お前じゃなくてさ、一樹」
 気持ちが少しだけ逆立った。間違えた恥ずかしさよりも、苛立ちが募る。昨日の晩は、あんなにも穏やかでいられたのに。
「……ちょっと寝るのが早かっただけで、心配しすぎでしょ」
「病院連れてったら? 明日、保育園休ませてさ」
「二葉もいるのに無理だよ。あなたが仕事休むならいいけど」
「休めないって。バカなこと言うなよ」
 逆立っていく。どんどん、どんどん。だから嫌なの、子育ては嫌なの、結婚も嫌なの、平凡な男は嫌なの。
 こういう時は目を逸らすのが一番だからと、もう一度Twitterに目を落としてみれば、大輔の声が追い打ちをかけてきた。
「なぁ、そんなもんばっか見てないでさ、もっと子供たちのこと見たら?」
 ガン。大輔に向けて投げつけたスマホは大輔の頬骨に当たって床に落ちて大きな音を立てて、それで二葉が起きた。
「見てるよあなたよりもよっぽど! 毎日毎日ずっと一緒にいるんだから!」
 ああーという二葉の泣き声がする。泣きたいのはこっちのほうなのになんで誰も私に泣かせてくれないんだろうだから私は泣く代わりにスマホを投げつけるしかなくなるし苦しい気持ちを言葉にして吐き出すしかなくなるしTwitterに逃げ込むしかなくなるしヤリたくもない男と。
「わかった、わかったから落ち着けって」
「わかってないよ、大輔は何もわかってないよわかってたら私はこんな思いしてない、絶対してない」
 二葉を抱っこしたまま立ち上がると、大輔は手を差し出してきた。怯えている。この人は、何にそんなに怯えているんだろう。
「貸して。とりあえず、二葉貸して。早く」
 貸してってなんだよ、物じゃないんだよ、私が抱っこ代わってって言ったって代わらないくせに今さら、今さらこの人は何を。
「嫌だ」
 ぽつりと呟くとますます大輔が怯えた顔をして、それが私をまた逆立てる。二葉を抱く手に力が入る。二葉の泣き声が大きくなる。
「嫌だよ私が育ててるんだから嫌だ、大輔はそうやって自分がいい時にだけいい顔して、それでお父さんとか言って慕われて、簡単だよねいいよね男は、それに比べて女は」
「いいから! 二葉!」
 大輔は半ば強引に私の手から二葉を奪うと、そのまま数歩後ずさった。大輔の体が当たって私はよろけてソファにぶつかって尻もちをついて、それなのに彼は、一切私のほうを見ない。
「……二人で育児するって言ったじゃん」
 涙なんて、一滴も出ない。
「私頑張ってるよ。大輔は頑張ってるの?」
 随分前に、もう枯れ果てた。
 大輔は答えない。二葉が泣いている。ずっと泣いている。泣きたいのは、こっちのほうなのに。
「離婚しようか」
 大輔の声が、全く知らない人の声みたいに響いた。
「子供は、俺が引き取るから」
 全く、知らない人みたい、な。
 視線の先、落ちたスマホはTwitterが開かれたままで、私は一樹のことや二葉のことを考えるよりもまず先に、離婚したらなんて報告ツイートをしようかと、そんなことばかりを考えていた。
 結局、離婚は保留になった。翌朝一樹が高熱を出して、入院の手続きでそれどころじゃなかったからだ。
 一樹の入院中、私は快適だった。子供が一人減るだけでこんなにも気苦労が減るんだと、その時初めて知った。

人妻つー @tsuchan_2chan ・ 3時間
今日から上の子がおばあちゃんちにお泊り。
久々に夜の自由時間。どうせなら、下の子
も一緒に預かってもらいたかったなぁって
思っちゃう私は母親失格なんだろうなぁ。
💬13   🔁   💛27


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