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2014年のバクー初訪問を語る(3)

前回までの記事はこちらです。

ということで、無事にセミナーは終了(たぶん無事だった)。私がご招待いただいたのは、たしか第3回のセミナーだったと記憶しています。

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第1回のセミナーのポスターが残っていたのを撮影。記念すべき第1回もまた、バクーで開催されたということのようです。で、ほらやっぱり、アルメニアの国旗がないですね…。

かわりに、トルコの国旗があります。後に大変お世話になる、トルコの先生が当時のゲストスピーカーだったと記憶しています。それはさておき。

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「出口」。こんなもん撮ってどうするのですか?と聞かれたなら、「いつ教材なんかで使えるかわからないでしょ」と答えています。街中の言語表記は役に立つことが多いのです。トルコ語に携わっていたおかげで、経験上知っているというわけ。

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建物の雰囲気一つとっても、トルコのそれとは見た目からして全然違うのが興味深いと思っていました。

今回はアゼルバイジャン語のデータを調査・収集したいので、研究会終了後も少し時間をくださいと、渡航前に各位にお願いしていました。無事バクー国立大学での聞き取り調査も終わり。31日、月変わって4月1日と、空いた時間に日本語教育の先生たちと食事をご一緒したり、市内で書籍などを入手したりしておりました。

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イチャリシャハルの入り口。観光用に修復してあるのだろうとは思うのですが。

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有名なアゼルバイジャン料理のお店に入りました。食事についてもいろいろみてもらおうという先生方の配慮だったと思います。ありがたいことでした。

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たびたびツイッターでも投稿する、アゼルバイジャン料理の写真。

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お土産物屋さんにも入ってみました。トルコのとちょっと似ていたような…?ちゃんと比較したことがないのでなんともいえませんでしたが、なぜか購買欲はわかなかったことだけ覚えています。

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ニザーミー通りというのが市内中心部のメインストリートで、ここだけみるといつ来てもきらびやかな雰囲気があります。いわゆる、「キラキラ」の部分の代表みたいなことでしょう。

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4月1日、滞在最終日。アゼルバイジャンの知り合い(共通の知り合いがいた)とも面会しました。28 May(イルミサッキズ マイ)駅にて待ち合わせ。ここが待ち合わせ場所としてよく使われるということも、後日研究調査などでお邪魔したときに理解しました。さあ市内に出たからには文字を撮るの一択。この日もすきあらば、何か撮っていたようです。たとえば下のように。

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「トレードセンター」と書いてあるな、というのはトルコ語を知っていれば理解できたりする、の好例です。

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鉄道のバクー駅も28 May駅にあるので、行ってみました。この写真には写っていませんが、いかにもな雰囲気の古い列車の車体をみた記憶が。この時ではなかったかもしれません。写真にはないので。

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ほうほう、トルコ語のindirim(値下げ)はアゼルバイジャン語ではendirimになるのか…等々。いやーやっぱりおもしろいなアゼルバイジャンは、とこの時強く思ったわけです。これはもう1回来なきゃいけないと。そのためには日本でもアゼルバイジャン語を勉強しておく必要があるな、と決心したというわけです。

ちなみにこの日、どこだったかで何気なく見た世界地図でおお…と思ったことがありました。その地図は、周りに世界各国の国旗も並べられてあったのですが、1カ国だけ黒く塗りつぶされている。なるほどな、と(どの国なのかはもうみなさんも見当がつくのではないでしょうか)。

夕方、再びバクー国立大学に。先生たちと合流して食事にいきましょう、ということになっていました。これが今回バクー滞在の最後の夕食。だいぶアゼルバイジャン料理にも疲れてきたころでは?という先生のご好意で、市内某所にある(バスに乗って連れて行ってもらったのですが、地理感覚がなかったのでどこあたりなのかわからなかった)ジョージア料理屋さん(くどいようですが、この当時はまだ「グルジア」と言っていました)に行きました。私はもちろんこの時がジョージア料理デビューです。バクー市内、けっこうジョージア料理店があるということを知ったのは、後になってから。

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「ヒンカリ」ですね。そうだ、これがヒンカリだったのです。

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そしてこれが、シュクメルリですよね。これもおいしかったです。まさかシュクメルリがその後日本で人気を博すなんて、このときは想像すらしていませんでした。そう、私はすでに2014年に、シュクメルリがおいしいということを学んでいたのです。無自覚だったけど。

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ということで、1週間弱と超短期ながら、記念すべきバクー訪問も終わりを迎えようとしていました。最終日もミニバンで空港まで送ってくださるということで。滞在中はとにかくお気遣いを賜り、ありがたいかぎりでした。

名残惜しいなと思いつつ、街中の印象を頭に焼き付けておこうと思っていました。車中で撮ったため、ブレブレの写真がフォルダにたくさん残っています。

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そうか、この人がソ連崩壊後のアゼルバイジャンの重要人物か、と。空港の名前にもなっているしな。ウズベキスタンなどでもそうでしたが、指導者の強さ(良くも悪くも)をこういう看板からでも感じます。

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この当時は空港へ向かう道路から、大規模な建造物がおそらく急ピッチで建てられているのを何回か目撃しました。たしかここは、その後スタジアムか何かになったのだと思います。オイルマネーの恩恵なのか。一方で、ぼろぼろの家屋群もあるところには見えたりなどもして、いろんな方が指摘している、バクーの景観のアンバランスぶりというものもやはり印象に残っています。

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まだリニューアルする前のヘイダル・アリエフ空港の入り口です。フライトが迫っていたので、時間の余裕はなく。急げ急げと言われていました。とにかく荷物を預けろ、と。

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ドライバーの方のご好意で、ぐるぐる巻きもしてもらいました。

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この待ち合いの椅子の雰囲気も、今は懐かしいものとなりました。この後ヘイダルアリエフ空港の国際ターミナルの方は大規模なリニューアルがあって、かなり近代的なたたずまいに。

この後私がバクーを訪問したのは2016年1月ですが、その時にはすっかり様変わりしていて、うわあバクーの空港スゲー!と思ったことでした。

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今は懐かしい、出国後の土産物スタンドです。結局買わなかったのですが。


以上が、バクー初訪問のお話です。ちょっと、印象が伝わったかどうかは自信がありませんが。とにかくこれで、私はアゼルバイジャン語を勉強する強いモチベーションを得たと思いました。

日本に帰国後、本格的にノートにアゼルバイジャン語文法の書き込みを開始しました。その後いろいろと研究資金の申し込みが採択されたりなどもしまして、トルコはアンカラに着任した後も、何度もバクーを訪れる機会を得られたというわけです。

当時の研究プロジェクトの申請書は、それはもう気合を入れて書きました。たのむワイをバクーに行かしてくれ!とか言いながら。おそらくですが、その情念が通じたのだろうと思います(しらんけど)。

トルコからアゼルバイジャンは比較的近いので、何かと便利ということもありました。そういいながら、その後5年で5度、何らかの形でバクーを訪問しています。その間にもいろいろな縁があって、今この瞬間はというと、日本で公開予定のアゼルバイジャン語の教科書の最終チェックに追われています。

何に興味をもって、それが何の役に立つかなんて、後になってみないとわからないということなのです。たぶんね。でも私にとってはトルコ語がそうだったし、その点では—トルコ語の副産物といえないこともないですが—アゼルバイジャン語も同じでした。

そんなわけで、以上3回にわたるバクー初訪問の報告でした。

文章はともかく、写真を楽しんでいただけたなら幸いです。Milad bayramınız mübarək!



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