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文法ほど楽しいものはないのにねえ

最近は全くツイッターのタイムラインを追いかけていないので断片的な情報しか入ってきていないのですが、またどこかから「英文法」不要論のようなものが巻き起こっているようで、この手の可燃性の高そうな話は定期的、周期的にやってくるのだなあと改めて思うなどします。

まあまず、語学とのかかわりがどれぐらい強いかというか濃いかというか、それはみなさんそれぞれでしょうからご自分のご意見を貫かれるとよいだろうとは思います。

が、しかし。文法それ自体を世の中の最大の関心ごととしている(たぶん)自分の身としての感想は、文法不要論はただただ「もったいねえなあ」です。こんなに楽しいものはないのに。

もっともここで、「文法」が何を指すかというのはわりに大事な問題でして、専門家のみなさんとそうではないみなさんの間にはその指し示されている対象が違う可能性があるということは考慮する必要はあるのですが。

とはいえ、大学でトルコ語に初めて触れる前から、私個人は英語なり国語なりはわりに好きな科目だったということはありました。その動詞の使われ方は第4文型なのかい第5文型なのかい、どっちなんだい(きんにくん的なノリで声に出しましょう)みたいな話は当初高校に入るまで用語そのものを全く知らなかったので、私自身も最初にそれを問われたときムチャなこと聞くなよ、と思った思い出はありますが、これとてその意図するところを理解すればなんということはないわけで。

それよりもなによりも、ことばを観察していて、そこに潜んでいるルールを自分なりに導き出すという作業。この作業こそが「文法について考える」ということであれば、これはもう楽しい作業以外のなんでもないということは多くの人々の知るところでしょう。

そのような作業は、語学としての英語学習のプロセスでは不要という話はありえます。が、いろんな国の人たちとのやりとりができるようになっている昨今、私たちの多くが英語以外の言語に興味を示す可能性というものも大いにありうることだと思うのです。

その時、中学・高校で国語(ここでは日本語を指します)や英語のルールについて考えたり、用語をひととおりは勉強してみたという経験は必ず有形無形の財産になるというのが自分の経験から言えることです。

教科書からにせよ自分で発見するにせよ、言語ごとのルールというものがいろいろな場面で顔をのぞかせてきます。そのエレガントさに感動したり、そうかあ母語話者のみなさんはこんな一見難しい語形をさらっと作り出せるんだ(すげえなあ)とか。そういう気づきにも出会えるというんですからね。

ということで、何を指しているにせよ。文法の話は楽しいんです。私は運よく大学でそのことを教えてもらったように思います。大阪外大よ永遠なれ(もうとっくに存在していないけどな!ガハハ!)。

むしろオレたち、もっとおおいに文法を語ってよいと思うんですよ。グラマー(grammar)のグラマー(glamour)を養分として摂取しようではありませんか。

しらんけど。

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