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一度書き上げたと思ったらそれで完成というわけではないから現世はきびしいですよね

昨日、某所で(といってもオンラインですが)担当していたアゼルバイジャン語の講座が一段落しました。ここ数年とりかかっていた自前の教科書を使いながら、あるいは別に用意していた練習問題を使いながら、なんとか自転車操業に一段落がついた感があります。

我ながらよくぞこなしたな、と、誰も褒めてくれないので一人ひっそりと自賛したいなと思います。

その一方で、一度完成したと思っていた教科書には、誤植とエラー、そして過不足だらけ。実践投入してみて気がつくことも多いとはいえ、これはちょっと多すぎるなと。
我ながらうんざりしますよね…

それまでにも一度別の方にアゼルバイジャン語そのものの例文の文法的なチェックも含めて見てもらう機会があり、その段階でもだいぶ直してもらってはいました。たびたびここnoteでも言及していた例のそれのことです。

ですが、それでもやはりまだまだ。いざ自分で教科書として使ってみても、ここはもうちょっと例文を足したほうがよかったかなとか、逆に書きすぎた、あるいは説明しすぎたかなという部分などが気になってしまいました。

数年来かかっている仕事の割には出来には満足できず、改めて自分の力不足を感じます。でもまあ、一方ではこんなものなのかもしれない、とも。身分不相応な仕事をしているのだろうな、という自覚もないではなかったですしね…

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とはいえ、これもひとまず完成はしなければならない。何もこれが最初で最後の一冊になるわけでもなし(たぶん)。長く続けていれば、そのうちまたなにか世に出るような形で、いいことがあるでしょう。きっと。しらんけど。

思えば、2014年のこの機会があったからこんな仕事をしている自分がいるんだなあと思うと、人生ほんとうに何がライフワークのきっかけになるかわからないものだなと思います。

そんなわけで、完全無欠のものを作り上げるというよりは、よりマシなものにするという感覚で。

世の人の目に留まるその日までに、できるだけタイポとエラーをつぶしていくという日々はしばらく変わらず、といった近況です。

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