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2014年のバクー初訪問を語る(1)

いろいろ書きたいことがたまってきた昨今。トルコ語をメシの種にしている私が、なぜアゼルバイジャン語も必死にやっているのですか?と謎に思っている方も多いのではないかとふと思いまして(いなかったらごめんやけどな)。年の瀬のこのタイミングですが、書いてみようと思ったときに書こうということで。最初の訪問の時のことを書いてみます。とにかくこのときに、私はバクー、そしてアゼルバイジャン語にすっかり取り憑かれてしまったのでした。その辺のことを振り返ってみようかなと思います。

私がアゼルバイジャン語に興味をもって、本格的に勉強を始めたのは2014年からです。それまではもちろん存在は知っていたし、多少意識もしていたのですが、あまり真剣に向き合う機会はありませんでしたし、アゼルバイジャンという国にもあまり関心を持っていなかったように思います。

そんな自分にとって大きな転機となったできごとが、2つあります。

まず一つ目は、日本語研究の人たちとのコンタクトです。なぜ日本語が関係あるの?と思う人も多いと思うので、以下少し説明を。

2013年、私は国立国語研究所のある共同研究プロジェクトにお声かけをしてもらっていて、それに共同研究者として参加していました。お役目としては、トルコ語と日本語を対照してみてほしい、と(じゃないと呼ばれることはまずありませんわな)。願ってもないことでしたし、何より誘っていただいたことそれ自体がありがたいことでした(先生方には今でも頭が上がりません)。

このプロジェクトで、日本国内で様々な方言や、沖縄で話されている諸語の研究のお話なども聞く機会があって、それらにかなりの刺激を受けました。純粋に例文をみるだけで面白かったのです。それに加えて、そうかあ、そういう方向の研究もあるんだな、と。年に数回はあった研究会に参加するのが楽しみで仕方がなかった(ただし自分の発表がまわってきた時はさすがに緊張しました)のを今でも覚えています。

さて、自分はトルコ語以外に何かできないだろうか?…と考えました。つまりトルコ語に近いところで、まだやったことのない言語ってなんだったっけ…?と。なぜかそのときにウズベク語を再開しようとは思わなかったんですね(正確には、まだウズベク語は続けてはいたものの、モチベーションはだいぶ下がっていました)。

そうだ、アゼルバイジャン語をまだ見てなかったじゃん、と思ったのです。相当似ているといわれているけど、ちゃんと調べてみないといけないのでは?と。それで、研究プロジェクトに関する現象について聞いてみると、トルコ語と少し様子が違うらしい、と。ほらきた、面白そうな現象があるんじゃん、と思いました。で、この現象についてはほんの少しですが、下のリンク先の雑誌で少し書きましたので、興味がある方はぜひご覧になってください。

へー、アゼルバイジャン語面白そうだなあ、現地で実際に触れてみたいなあと思っていたちょうどその頃のことでした。当時、国際交流基金の派遣でバクーに赴任しておられた先生から、「南コーカサス日本語教師会でトークをする人を招聘するはずだったのだが、当初来る予定の人が来れなくなったのでよかったら代打で来てくれないか」というお誘いがあったのです。これが二つ目の転機。一つ目の転機に続いて、すぐさまのことです。

なんというタイミングで。こんなことあります???

これは神様の思し召しと言わずしてなんであろうか、と思いました。秒で「行きます!!!」と返事しまして、ビザを取得することに

当時は事前にビザを取ってから入国する必要があり、大阪に住んでいたので東京までビザ申請をしにバスで2往復したのを覚えています。1往復目はビザの申請、2回目はビザを取得した後のパスポートの受け取り。当時は残酷なことに郵送の申請を受け付けていませんでしたので、ずいぶん大変だなあと思ったことでした。

またその頃、誰だったかが最近ニュースでも出てきた、ナゴルノ・カラバフ地域に無断で入ったという事案があったのだそうで、「絶対にその地域には入りません」という所属先のボスのレターが必要、とも言われました。英文を自分で用意して、所属していたところのボスのサインをいただいたことも覚えています(関係各位には、その節は本当にお世話になりました…)

日程的にもビザの取得はずいぶんギリギリのタイミングでしたが、なんとかビザを取得して、2014年3月27日、関西空港からイスタンブル経由でバクーへ。ああ懐かしのTK47便です。それに今となっては、アタテュルク空港も懐かしいですね。

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トルコ語を生業としている身でしたから、イスタンブル行きはもう、勝手知ったるルートでしたので特段何も思わなかったのではないかと思います。イスタンブルからバクーの便がどきどきでした。もちろん初めて乗るフライト。

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やあアタテュルク空港、昨年ぶりだねと言いながら(この前年の2013年も私費でアナトリア南東部などを見て回っていたので)。

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翌3月28日、さあ、いよいよ緊張の。バクー行きの飛行機です。ちなみに、タラップから飛行機に乗るのがメチャ好きなのですが、これ、わかっていただけるでしょうか?

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フライトの時間帯もあって、イスタンブルからバクーの機内食は比較的シンプルでしたが、この機内食がおいしいのがターキッシュのいいところの一つです。

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イスタンブルから3時間ほどのフライトで、バクー、ヘイダル・アリエフ空港に到着。生まれて初めて見る、アゼルバイジャン航空の機体にテンション上がりました。日本の空港にはアゼルバイジャン航空は出入りしていませんでしたから。

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おおおお。あなたがかねがねお話に聞いていた、本場のアゼルバイジャン語(本場のとは?)!アゼルバイジャン語さん!はじめまして!という気分です。まだ入国もしていないのに。

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荷物を待っている間の広告にもすぐ目が行きます。すごい名前の銀行だなあ、とか言いながらね。へー、アゼルバイジャン語だと「私たちと」はbizimləと書くのだな。トルコ語ならbizimleだな、とか。

空港では、バクーの日本語教育の先生たちがお出迎えにいらしてくださっていて、そんなことまでしてもらうような身分でもなんでもないのに、と大変恐縮したのを覚えています。

予約してもらった宿に着くまで、私の目は街中のアゼルバイジャン語の文字に釘付けになっていました。やばい、わかる。始めてきた国なのに何書いてるかなんとなくわかるってすげーな、と一人勝手に興奮しているわけです。

宿について何をしたかといえば、もちろんテレビをつけて、アゼルバイジャン語のチャンネルを必死に探しました。うーん、わかるようなわからんような、と言いながら。この後夕方食事にお誘いいただいて、翌日の日本語教育研究会を迎えるという日程でした。事前に学習はほとんどしておらず、どんなごはんがアゼルバイジャンにあるのかも全くわかっていなかったと思います。あえて予備知識ゼロできてみました、という感じでした。

(次回へ続く!)

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https://note.com/ctojisan/n/n93764f962b72?magazine_key=maf5a311707a3


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