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家に戻れなくても「避難者」にカウントせず避難先の引っ越しは認めない      福島県に戻るなら家賃を出す      国・県の政策は「復興偽装」ではないのか?

 2018年1月12日、福島県いわき市の「泉玉露」地区にある仮設住宅団地で開かれた、新年のもちつき大会を取材に訪れた。「仮設住宅の住人が減ったので、今年でもちつき大会は最後にする」と自治会の役員だった人が言っていた。仮設住宅の住民が減ったということは、一見人々がわが家に帰ったように思える。本当にそうなのだろうか。現地を訪ねて確かめてみようと思った。

(カバーと以下の写真は特記のないかぎり2018年1月12日、福島県いわき市の泉玉露仮設住宅で筆者撮影)

 ここには、福島第一原発事故の放射性物質の汚染で故郷の富岡町を追われた人々が暮らしている。故郷の富岡町は、仮設住宅から約50キロ北にある。いわき市には放射性物質のプルーム(雲)が流れなかったため、同じ福島県内でも、プルームが通った地域ほど汚染が深刻ではなかったのだ。

下の赤いマークがいわき市にある泉玉露仮設住宅団地。上右部に富岡町が見える=Google Mapより)

 富岡町から脱出した住民が、いわき市の仮設住宅にたどり着くまでには、辛苦に満ちた紆余曲折があった。福島第一原発から約10〜20キロ南の距離にある富岡町は、東日本大震災の翌日(2011年3月12日)に全町民約1万6000人が避難を命じられた。「数日で帰れると思って、財布と携帯電話しか持ってこなかった」という住民も多い。文字通り、体一つでの脱出だった。政府の避難命令が10キロ→20キロ→30キロ(屋内退避)と拡大するにつれ、住民も隣の川内村、郡山市を転々と移り、各地の避難所(=体育館や公民館での生活)に散った。そして仮設住宅に移った。そして、そのまま6年以上の歳月が流れた。

 私は、この泉玉露仮設住宅団地を何度も訪れている。もちつき大会も2015年に取材した。自治会の役員である西原千賀子・清士さん夫妻が、封鎖されたままの自宅への一回5時間の「一時帰宅」に同行させてくれたこともある。JR常磐線の富岡駅夜ノ森駅周辺など、富岡町の現地にも何度も通った。そんなわけで、私にとって富岡町と泉玉露仮設住宅は、福島第一原発事故の「その後」を取材するための「定点観測地点」のようになっている。

 今回改めて行ってみると、泉玉露の仮設住宅から住民が減っているのがわかった。空き部屋の方が多い。プレハブの住宅の前に洗濯物や植木鉢が並び、人々が行き交っていた3年前(下写真2点。2015年1月10日撮影)のもちつき大会当時とくらべると、変化をより一層明確に感じた。

 テレビの音や人々の話し声が聞こえない。しんと静かだった。大げさではなく「ガラガラ」「櫛の歯が抜けたよう」という形容が合っていると思えた(下は空き部屋の写真。2018年1月12日撮影)。

 それでは、そうやって仮設住宅を離れた富岡の住民たちは、故郷・わが家に戻ったのだろうか。


 確かに、2017年4月、富岡町の約4分の3の地域は立ち入りや居住の制限が解除された。「除染が済んだので、戻って暮らしていいですよ」と政府が宣言したのである。街名物の桜並木を安倍晋三総理が訪れ、マスコミ用の撮影機会をつくった。(下の写真は2017年4月8日に富岡町を訪問した安倍総理。首相官邸ホームページより)

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