見出し画像

飲み会

お久しぶりです。
全く写真に関係なくて恐縮ですが今回は飲み会について書きます。
色々思うことがありすぎて…

突然すみません。
個人的に文字にして楽になれたらと思います。

さて、電話に比べれば頻度は少ないですが、飲み会というのもまた私にとっては鬼門というか、拷問に等しいようなものです。

飲み会というのは、基本的に苦手な状況のオンパレードです。

まず、大抵の場合、そこは初めて利用する居酒屋になります。基本的に、同じ店、同じメニュー、同じ席を好む傾向がある私にとって、初めての店というのはそれだけでハードルが高くなります。

普段自分で飲みに行くということもないため、その手のお店のルールが分からないことにも緊張を強いられます。

靴を脱ぐのかどうか、下駄箱に入れるかどうか、トイレの場所はどこか、店のレイアウトはどうなっているのか、隣との仕切りはどうなっているのか、注文の仕方はどうなっているのか、あるいは、この頼んでもないのに出てくる御通しというのは何なのか。とにかく分からないことだらけで不安が強いわけです。

また、居酒屋というのは、常にがやがやとうるさい状況で、人の密度が高く、出入りも激しく、あちこちで大声でのやりとりや注文が飛び交い、ふいに爆笑や掛け声などが起こり、絶えず皿やグラスがかちゃかちゃ鳴り、静かなときというものがありません。聴覚過敏から雑音に対して物理的といってもいいようなダメージを受ける人間としては、とにかくうるさすぎるのです。狭くて人が近すぎるのも息苦しさを感じます。

私の場合、どうも音圧に対して弱いらしく、音で全身の体力が削り取られることに加えて、特に頭と声にその影響が出がちです。許容を越えた雑音にさらされていると、より雑音が増幅し頭痛が始まります。そして話すことができなくなりますます孤立するということに繋がったりするわけです。
普通に話せたのは2時間が限度。それを過ぎるとどんどん苦痛になってきていて、3時間経つともう外に飛び出してやろうかと思うほど極限状態にまでなっていました。

私はよく知らない人とうまく話すことなどできませんし、話したところでやりとりも続きません。比較的親しい人が参加していたとしても、そういう人が必ずしも隣に座るとも限りませんし、何か気遣ってくれるわけでもありません。

それに、飲み会というシチュエーションでは、席移動という特殊ルールがあり、いつ誰がそれを発動するかも分からないのです。せっかく話しやすい人が隣にいても、無情にも飲み物片手に席を立たれてしまったりするわけです。あのときの見捨てられた感じはつらいものがあります。

そんな風にして、私の場合、気がついてみると、右側の話の輪と左側の話の輪の谷間にいるような状況に陥っていることが多いですが、そういうときほど、一体自分はこんなところで何をしてるんだ、やはり来るんじゃなかった、と己を責め苛むこともありません。もう本当に苦痛なだけの時間です。

どちらかの話の輪に参加した方がいいだろうかと焦りながらも、きっかけが掴めない。しかし、考えてみると、そこで話されていることにたいして興味があるわけでもないのです。参加したところでただ愛想笑いを浮かべることしかできないでしょう。しかも、ふと話が途切れたときなどに、そういうあまり喋らない者を目ざとく見つけては「お前もなんか言え」などと無茶ぶりをしてくる人間も往々にしていたりするわけです。もちろん、うまく対応できるはずもありません。

実際のところ、いくら場にいることが苦痛であっても話の輪に参加したいとはあまり思ってなくて、思ってるのはただ、早く帰りたい、早く解放されたいという、それだけだったりします。

ところが、その帰るタイミングもよく分からないときています。飲み会から、いつどうやって帰ったらいいのでしょうか。他の人は帰り方や去り方をいつどこで学んでいるのでしょうか。

ときどき、場に響き渡るような声で「おつかれさまでーす!」などと景気よく言って途中退席する人もいますが、あれがものすごく羨ましいわけです。そういう人を見かけると、途中で帰るのもありなのか、それじゃあ自分も帰りたい、という気持ちがどんどん膨らんでいきます。

しかし、そういう場合の会計はどうすればいいのかも分からなければ、場の全員に向かって宣言するような真似も自分にはできません。なので、帰りたい帰りたいと一心に思いながらも、話し相手もなく、食べるものも飲むものもないまま(自分で注文できない)、ずるずるその場に居続けてしまうことになるのです。

そしてさらに、私がその場にいて喜んでいる人など一人もいないはずなのに、気がつくと二次会に参加させられる羽目になっていたりするのです。

お酒の席に適用されている独特のルールで、他にもうまく理解できないものがあります。

たとえば、その場は無礼講なのか、それとも普段と同じような上下関係があるのかも分かりらないことの一つです。口では無礼講と言いながら、実は普段と変わらない上下関係があるということもありますし、そうかと思えば、人によっては無礼講が許されているようでもあったりして謎は深まります。そもそも無礼講というのが何なのか、具体的に何をすることがOKになるのかも分かりません(もしかしたら「楽しくやりましょう」という程度の意味なのかと、これを書いてる今気づきました)。

私が頼むのは基本的にソフトドリンクで、飲んでもせいぜい二杯。食べ物は飲むことがメインの人に比べれば多少食べるかもしれませんが、間を埋めるために食べるという感じでたいして味わえもしません(基本的に帰宅後に食べ直すことになります)。

いずれにしろ1000円~1500円も出せばお釣りが来るだろうのに、三千円、四千円、ときには五千円も払う羽目になります。私からすれば、五千円もあったら夕飯10~20食分は助かるというようなものでした(自炊したり外食したりで)。

小さいことを言ってるようですが、こちらはなまじ平静なだけに不公平感が強いわけです。苦痛ばかりで楽しいことなど一つもない上に金まで取るのか、みたいな。

それから、もしかしたらこれが一番大きいかもしれませんが、他の人はなぜこんなことをしたいのかが理解できないことです。

繰り返しになりますが、私にとっては飲み会というのは拷問みたいなもので、苦痛ばかりで楽しいことなど一つもない上に金まで取るような、負担ばかり大きいイベントです。もちろん、電話と同じで一人反省会も開いて、マイナス思考をずるずる引きずりもします。

少し文句を言うと、「みんなイヤイヤやってるんだから」とか「みんな我慢してるんだから」などと言ってくる人がいるんですが、私は少しも信じてません。信じてないというか、その言い方には私には全然有効性がないというか。

それが説得の一様式というのではなく、もし文字通りに本当なのだとすると、ますますわけが分からないとも思います。みんながイヤがってるならやめればいいだろうとしか思えないわけです。要は、人並みにそれに参加できるくらいなら、個々にとってイヤな局面はそれなりにあるにしても、私と同じくらいにイヤではない、というそういうことなのでしょう。なんだかんだ言って、多くの人はむしろ楽しみの割合の方が多いのではないでしょうか。

自営業だと、仕事の打ち合わせをわざわざ居酒屋でするというようなことさえあったりするわけですが、私からすると部屋中にモニターがあって、そこで延々エロ動画が流れているような状況の中で仕事の話をするようなもので、まったく頭も回らなければ効果もあがらないというか、安くないお金まで払ってわざわざそんなことをする意味が分からないと感じていたものでした。ただ相手がお酒を飲みたがっているのに付き合わされているという思いばかり強かったですね。

中には飲むといいアイデアが出ると言うような人もいて、それはそれである種の仕事論として「へー、そうなんだ」くらいには思いますが、私はそういうのはこれっぽっちもないですからね。私は一人にならないと考えられない人間ですし、打合せなんてその辺の公園でできるのにといつも思っていました。

ただの文句みたいになってしまいましたが、ASDの特性を踏まえると飲み会のような状況への向かなさ加減が見えてくるのではないかと思います。といって、長くなってしまったこともあり、その辺の検証はしないで終わりにしますが――。

たまにはこういうのもいいのかな、と。
また次回。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?