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【因縁の地】福島県小野町に行ってきた(前編)

1.経緯


こんにちは、ついに音ゲーに楽曲が収録されたスーパークリエーターです。
…ごめんなさいスーパーは大嘘です、あと合作者さんの功績がデカいです。
(この辺の話は後で更新します)

心的な経緯は長くなるので後編の一番最後に記しますが、昨年辺りから色々連絡を試みた結果、生後~高校時代+最初の職場で心身を壊して療養中の1年を過ごした福島県田村郡小野町」を訪ねる機会に恵まれました。正確にはいつでも行ける距離ではあったが、気持ち的な問題でどうしても足を運べなかった土地でした。他者が期待する内容の濃さにはなってませんが、私個人が気持ち的に若干の区切りがついたので、そのまま書き記しておきます。 ちなみに何で「気持ち的な問題」かというと、いわゆる余所者に該当、および気質的な原因で見事に子供時代にからかい・スクールカースト低位・いじめの対象になっていた事が原因です。詳細は先述の通り、後編の一番最後に記してます。

2.訪問記録の前に福島県小野町の基礎情報

東北地方は福島県、中通りの中部、田村郡に位置する町です。
全国に3か所くらい候補が有るらしいですが…一応、平安時代の女流歌人「小野小町」の生誕伝説の地です。
また童謡の「猫ふんじゃった」、「みなしごハッチ」「ハクション大魔王」のアニメ主題歌、「高校三年生」「高原列車は行く」の作詞家として有名な「丘灯至夫」さんの生誕地でもあります。

日本唯一の人形一貫制作工場兼展示施設である「リカちゃんキャッスル」が有ります。元々タカラトミーさんの工場があった所以らしい。

ローカルネタだと、隠れラーメン激戦区の福島県、毎年やってるKFBさんの「福島県民ラーメン総選挙」にて毎回上位常連、2023年では見事1位を獲得した「仙台屋食堂」さんが有ります。一回だけ行った事が有るけど、量がすげぇといった記憶しか無くて申し訳。

ちなみに、お隣には芝桜の名所や気でも狂ったのか何故かハバネロをゴリ押し名産品にしてる平田村が有ります、全国区の番組でも何度か紹介されてるのでそこそこ有名のはず。

あと、地図を見ての通り浜通りに寄っているため、2011の東日本大震災・東電原発事故の際はかなり大変だったらしいです。これは全国共通で地方の宿命で少子高齢化が進んでいるとは言え、だいぶ復興に力を注いだなってのは巡ってみて分かります。
ちなみに某でっかいハコのVTuberさんもといにじライバーさんに同じ苗字の方が居ますが全く無関係ですしむしろゲーム配信とかよく見るので文字列だけ見て全然嫌悪感とかは無いです。ん?したら5周年の広告はりっちゃんじゃなくて若女将だった可能性も有った?まぁどっちも見れてないんですけども。

3.訪問記録(メイン)

ここからは訪問先、立ち寄った場所を記していきますが、やはり一番最初に訪問のきっかけを作って頂いた、そして今回の一番の目的地であった場所について書かせてもらいます。

後述の図書館と同時期に増設したと記憶している。昔は公民館として利用されていた。

小野町の子育て支援課。今回の訪問のきっかけになった場所です
当時の知り合いが居ないのなら…と、昨年から駄目元で自分のルーツ辿りのために関係各所に連絡をさせて頂いた際、一番親切、それどころか詳しく話を伺えるきっかけを頂いたのが出身幼稚園の「小野町立わかば幼稚園」の2022当時の園長先生でした。残念ながら少子高齢化に伴い幼稚園及び同敷地内の公立保育園は2022年度で廃園になってしまってました。代わりに認定こども園が出来、放課後の子育て支援を当支援課の建物内で行っているとの事、なのでこの日は午前中にお時間を頂いての訪問でした、お忙しい中本当にありがとうございました。
当時の園長さんと色々お話をさせて頂いた結果、お会いこそ出来なかったものの、私の年少クラス時の担任の先生が今も町の行政にいらっしゃる事、その方伝で当時の印象(優しく(=気弱・泣き虫という事ではあるw)絵や工作が大好きで器用だったとの事)を聞くという貴重な話を頂くことが出来ました。他にも身の上話や、一応私もかつて療育や児童福祉に携わった経緯がある事を踏まえ様々な意見交換をさせて頂けました。帰り際には支援課長さんにも挨拶させて頂き、更に今回唯一(!)私の学童期を知る方とお会い出来ました。剣道スポーツ少年団でご指導下さっていた方で、他の子より少し遅めに始めた為にいきなり上級生コースに合流させられて大変だったのによく頑張って続けてくれたと。ありがたい限りです、もっとも、見て頂いたのが僅かな期間だったので、こちらが殆ど覚えていなかったのは申し訳なかったなと…。なお数年前、一度中断する前にカウンセリングで見て頂いてた、かつ中学校当時にスクールカウンセラーでいらっしゃっていた先生にもお会いできる予定だったのですが、急用につき残念ながら実現出来ず。
ここを訪問した時点で既に私の目的は大部分果たせてしまいました。ASDの特性なのか一度決めた物事は白黒付けないと先に進めないという悪癖が有るのですが、こうして現地に足を運べた事、良識を持った方々とお話をさせて頂けた事で、私の中の「辛い学童期を過ごした町=地図上から消してやりたいくらい絶対許せない因縁の地」という歪みが(完全では無いにせよ)緩和することが出来たように思います
お話をさせて頂いた職員さんからは「こうして過去に向き合って逃げないで生きてくれているのですから、どうか自信を持って」との励ましを頂きました。違うんです、いつまでも過去から逃げられずに減価償却とっくに終わってる廃品が未練がましく余命を消費してるだけなんです、それでもこうして聞いて下さった事に感謝の念が尽きません。

4.訪問記録(サブ)前編

メインの目標を達成したので、せっかくなのでというか元々予定していた、当時の記憶を少しでも呼び起こそうと、ぼちぼち町の中を巡ってみました。

地区に引っ越してきた頃からこの周辺は急ピッチで様々な施設を充実させていった事を記憶している、丁度小学校入学の頃に完成したのはありがたかった。建物前の小川での水遊びや生き物探しが楽しかったのも覚えている。当時の公民館同様、二階で様々な親子・子供向けの物作りや体験行事があった。

小野町文化の館。町立図書館と民俗資料館、展示スペースの複合施設です。図書館側の二階には先述の丘灯至夫さんの記念館が有ります。当時無かった胸像が階段前に飾られてました。
人見知り全壊+特定の興味分野に延々と時間割きがちの子の宿命に漏れなく、本大好きっ子だったのでここには随分お世話になりました、当時の自宅近くにこうした知的探求心や娯楽を満たす施設が有ったのは心の支えとしてめちゃくちゃありがたかったです。

町の木が「杉」ってのは万年花粉症からすると正気かお前ってなるw

研修センター。先述の子育て支援課さんと同敷地内。町の催し事、映画上映や小学校の行事(映画上映会や吹奏楽発表会)で随分足を運びました。あ、そう言えば吹奏楽部に小6の時だけ在籍してたわ、トロンボーンだったけど他の子より入るの遅くて下手っぴだったので途中から打楽器担当になりました、あれ?じゃあ俺のキックやベース主体の音楽のルーツって…。吹奏楽に限らず色んな行事や習い事に参加させて他の子に何とか馴染ませようと必死だった母親の苦労が伺えます、申し訳なさみが強い。
ここの敷地を借りて(催しとか無ければ駐車場とかガラガラだったので)キャッチボールや自転車が乗れるように色々頑張ってた辺り、一応は父親も我が子が人並みに運動できる様に頑張ってはいたのだなぁとは。なお結局運動能力が上昇する事はついになかった模様、球技は天敵。
ちなみに小学低学年時に引っ越した時は工事前で全然整地されておらず、通学時に盛大にすっ転んで顔面血まみれで登校した事を覚えています、うーん無様w
町の産業祭の規模が年々小さくなっていったのは子供心ながらなかなか寂しかったなぁ。

日当たりが良いのと駅や図書館が近いってのは条件的にはありがたかった。
右の建物は地区の集会所。子供会の集まり等でよく利用した。

元自宅。幼稚園まではもっと町中の家に居たのが、色々あって小学校上がるタイミングで当時はまだ町のはずれの方だった平館という区の団地に引っ越し。ここの区が同じ学年の同級生がほとんどおらず(学校や地域行事では区対抗の競技や催しも多く、家庭や子供同士のコミュニティも固定されがちなうえ、この区はママ友界隈もかなり大変だったとの事)余所者の身も相まって常に薄っすらと疎外感は覚えていたと記憶。それでも地区の子供会(親同士のコミュはさて置き)や下級生の子たちには随分良くしてもらっていた記憶もある、ありがたい限り。
ちなみにこのすぐ近くに、一度高齢福祉関係で勤めた際に研修させてもらった多機能事業所さんが有るんですがそれについてはコメントしません、残念ながらしたくありません、察してください(その事業所が、というわけではなく…まぁ福祉の仕事はもうやりたくないですって節目になった頃だったので)。
そうなんです、1度は数年前に行く機会が有ったんです。ただ当時はまだゴリ押しの気概が抜けきっていない20代、福祉でやっていけると盛大に勘違い真っただ中でしたし、新しく決まった仕事に対して精一杯だったので、昔の記憶なんて思い出すのも嫌だったので無理やり抑え込んでた頃でした(それでも心のどっかでは薄っすら引っかかりはあっただろうし、結果的にこの年辺りの出来事が今になって小野という土地への因縁を増幅させる結果になったのですが)。

ここで「下級生の子たちには随分良くしてもらった」とあるが、学区やスポ少、部活その他に至るまで、どうも「同級生には変に恵まれないけど下級生には恵まれる」という現象は中学までずっと付きまとう。何なら母親のママ友さんのお子さんや妹の同級生(もちろん皆下級生)の面倒を見させてもらった、みたいな機会も結構あったと記憶している。これは凄くありがたい事では有るが、小学校高学年辺り以降から、どうもそれは「下級生としか仲良く出来ない情けない奴」、なんなら「慕われてるんじゃなく、下級生からも舐められる奴」というレッテルにどうやら変わっていっていたらしい。実際にそれが仇となって嫌味を言われた記憶も蘇ってきた、思い出したら無性にムカついてきたが過ぎた事なのでもう仕方ない。
もはや年齢など気にしても仕方ないとはいえ、今に至るまでもそうだが、リアルの繋がりや仕事、それこそ音楽に至るまで本当に「同じ年齢の人間」に恵まれた事が本当に少な過ぎる、強いて言えば大学の友達にはかなり恵まれたが、仮に「数」を気にするという嫌な基準を用いたらそれも恵まれなかった事になる。基礎能力が低い上に早生まれという半端ものコンボを受けた者の宿命なのか…(何かの資料で「早生まれは同年度世代の子に対し平均的に遅れている」という嫌な論説も見た、リンク先のソース的にふざけた事言ってんなって文句も言いたくなるが)。※みんながみんなそうとは決して言いません、あくまでも俺が俺に対して厳しい視点で言ってるだけです。

うーん、ただ巡った先を書くだけなのに、当時の記憶も踏まえるとどうしても長くなってしまう。一旦ここで切るので前後で記事分けたいと思います。

後編 https://note.com/ufsfalchion/n/n20a7ca370112