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【因縁の地】福島県小野町に行ってきた(後編)

こんにちは、遅くまで作業とスプラをやってたので一日またいでの更新です、怠惰。まず前編をお読みください

1.訪問記録(サブ)中編


町中ぶらぶら記憶辿りの続きです。

昔のままの駅舎、駐車場がそこそこ整備されてたくらいか。
磐越東線。郡山行きは朝夕30分、他1時間に一本、いわき行きは2~3時間に一本。地方なのでそんなもん。

小野新町駅。高校は1時間電車に揺られての通学でした。自宅から近くて良かったものの、朝が弱い&お腹が当時から貧弱だったのでトイレ長い(学生が休憩時間にウンコしに行くのは恥ぞ!みたいな風潮、有りましたよね…)のコンボで息切らして猛ダッシュか諦めて遅い方の便に乗るのが常態化、反省して。車窓からの眺めはよくあるのどかな田舎の風景です。ちなみに磐越東線は無駄に(?)風雪に強かったので、台風や大雪でもなかなか学校を休ませてくれませんでしたw
高校の思い出もまぁまぁ真っ黒、楽しい学生生活からは程遠いものでしたが、長くなるのでその話は別の機会に。

通学路の一部。桜の時期じゃなくて申し訳ない。集団登校なんて無い時代だったので、独りでとぼとぼor複数人でわいわい登下校するかも一つのステータスみたいになってたので、何とかして独りにならないようにあの手この手を使ってた気がする、辛い。
右:(一応小学生まで)友達やってもらってた子の親が勤めてた郵便局。学校帰りとかにオフィススペースを借りて遊んでるのを見守ってもらってた記憶がある、感謝。
左:子供会の廃品回収や火の用心見回り、祭りのお神輿担ぎの中継・出発点だった消防団詰め所。なんやかんやで子供会の思い出はそんなに悪くなかったのが救い。
最寄りのコンビニ。裕福では無かったため他の子とちょっと違ったお小遣い制だったので自由にお金は使えなかったけど、スポ少帰りに寄ってもらったり休日の昼飯買いだったりにこっそりエロ本を買いに行ったり随分お世話になった。町中に大手コンビニが集まってるので品揃えは薄くなったものの、直産野菜や特産品は多めに置いてある。
掛かりつけだった病院。しょっちゅう具合悪くしてたのでお子さんスペースに入り浸ったり置いてある本を読むのがもはや楽しみになってたけどそれで良いのか。喘息やアレルギー、変なデキモノ除去まで随分お世話になった、アレルギーの体質改善注射は残念ながらそんなに効果なかったけど…。

学校さえ離れてしまえば、生活に必要な施設も大体揃ってたし、独りで遊ぶのもそれ程困らなかったしで、暮らした場所そのものにはそんなに嫌な印象も無かったんだなと。子供会でも随分良くしてもらったのでそういった意味では救いでした。学校さえ離れてしまえば、ですが。

町立わかば幼稚園と中央保育園が有った所。遊具を残して見事に更地になっていた、寂しい。

前編でも書いた通り、幼稚園時代から人見知りや引っ込み思案全壊で泣き虫だったので、もういじめの下地は出来上がっちゃってたのかも。半面、絵をやたら描いては園長先生の部屋に持ってって貼ってもらったり、行事の日の朝に何を考えたかでんぐり返しをして首を痛めて接骨院に運ばれるなど、変なところで自己主張ややんちゃが過ぎたクソガキだったので、随分親や先生は困らせたんだろうなと猛省しています。ちなみに幼稚園卒業前の最後のお昼ご飯の時、お弁当を同級生の女子にひっくり返されたのは未だに根に持ってますw
せっかく仲良くなった幼稚園の時の友達や幼馴染がピンポイントで引っ越して行っちゃったり、自分も小学校入学直前で町はずれに引っ越さないといけなくなった喪失体験についても別の機会に。

少子化の煽りで分校や他の区の小学校と統合。校庭の池には2回くらい落っこちた記憶がある、運動神経0。学校前に元有って子供たちの憩いの場になってた雑貨屋さんは何年か前に火事になり家主さんも亡くなってしまった、残念です。

小野新町小学校。当時は何やかんや楽しかった…と思ってたものの、後から思い出せば学年が上がるにつれ他の子より諸々劣りはじめ、流行りにも疎い一方興味を持った物事に固執しがち、3年の頃に肺炎をやったのを境に肥満体質になって外見も弄られる、また軽いチック(不随意運動、何故か軽く頭を揺らしてしまう癖が今も若干ある)や目を人と合わせられないという、恐らく広範性発達の一環だろうなって特徴も出始めていたので、随分とからかい、高学年ではおそらく軽いいじめの対象になってたのだと思います。一方で私自身も宿題や学級係の役割をすっぽかす、他の子への意思伝達の難あり等、問題児といえば問題児だった自覚も有るので、自分は悪くないとも自信を持って言える立場では全然無いです。モヤる出来事もだいぶ多かったのでこれもまた後日。あぁ、書くべき内容が溜まっていく…。

東北は坂上田村麻呂による蝦夷征伐の舞台その地、平定の神護祈願により建てられた塩竈神社の文社がここにも有る。ちなみに総本社所在地は名前の通り宮城県塩竈市。ちなみに4歳まで寝小便が止まらなかったというクソガキワイ、母親とここにお参りしたその日からピタっと収まったらしい…。
お礼参り。一見平静を装っているが、急斜面で長い石段を登り切った後の為ふらふらである。それでも距離にして総本社の1/3程度しかない。
名所、リカちゃんキャッスル。ラブホではない。最後に見た時よりやたら外装が鮮やかだけど修繕した?
ちなみにこのすぐ近くには随分昔に廃業してしまったボウリング/ビリヤード場&カラオケボックスがあった、子供会やスポ少、長期休みに親族と遊びに行くのによくお世話になった。
メイン通り。書店やおもちゃ屋、お菓子屋や理髪店などなど、当時有った商店は結構な数が入れ替わって/畳んでしまっている。ここからもう少し駅寄りの通りも同じく閉店&全国チェーン店が開店といった塩梅。通っていた音楽教室も既に無い。
ところで小野町グルメはアイスバーガーが有名らしいが食べた事ないし、販売元でメイン通りにある丸忠ストアーさんもこの日はなぜか閉まってた。後々調べたら駅寄りの通りにあるシェフリー松月堂さんでも扱ってたらしい、個人的にはオムレットがとても美味いというイメージが強い、おススメ。
ヨークベニマルは元々町中にあった1件と、2000年辺り?に出来たおのタウンコムコムに1件。昔はフードコートや書店が併設しており、周辺に衣料店や郵便局、今はもうちょい外れに移転した総合病院もコンパクトに集まっていたため、生活を簡潔するには十分事足りた。
実は町役場の職員採用を受けて面接試験まで進んだ事が有る。親曰く、地元にコネが無いから落ちちゃったんだ、運が悪かっただけ、との事だが、どう考えても普通に能力不足だっただけだし、むしろワイみたいのが受かってしまってたら今頃どんな大変な事になってただろうか…。

もし、小学校入学のタイミングで引っ越さず町中に留まってたら?ほんの少しの物理的距離でも学区や生活範囲に大きな差が出来てしまう状況下だった事を考えると(母親が車を持ったのは俺が小3後半とかその辺り)、もう少し元々町に住んでいた子達のコミュニティに上手く溶け込めてたかも知れない…とも思ったが、どっちにせよ多分それは無かったでしょう。むしろ既にがちがちに出来上がってたコミュニティに溶け込もうと、自分も親も更に必死になってより状況は悪くなってたかも知れません。

町中を巡る中で、唯一、とある事情で私の学童期を少なからず知る方を訪問する事が出来ました。「なんだよ知り合い居るじゃねぇか」と言われたらその通りなんですが、諸事情により、しっかり繋がりを持ってしまうと本当にご迷惑になってしまう方なので、ご挨拶程度です、それしか出来ません。ただ、子育て支援課の職員さん同様に、良識に溢れ、ご自身が大変な状況下でも励ましの声を下さる方が居るという事実だけで、この町で過去に受けた仕打ちへの不満や憎悪=自分の半生が無駄そのものだったという負の感情を緩和する事が出来ます。突然の訪問にも関わらず、本当にありがとうございました。

2.訪問記録(サブ)後編

やっぱり長くなっちゃったので区切りました。

校舎まで伸びる急勾配の地獄坂、冬季は文字通り(凍結で)地獄と化す。戊辰戦争の時には血で真っ赤に染まり、討ち死にした武士の幽霊が出る出ない云々。

小野中学校。この辺りの記憶は…本当に混沌としています。いじめやスクールカーストだけでなく、記憶も「腑に落ちない出来事」も大体ここ由来に集中しており、書き始めたら止まらなくなるのでこれも保留、多分相当なボリュームになっちゃいます。
あえて一つ苦言するとすれば、昨年から色々連絡をさせて頂いた関係機関にここも含まれますが、教頭なのか校長なのか今となっては分かりませんが「それを今更聞いてどうするんですか?」と突き放した返答だったのはよく覚えています。事情も何も知らない側からすればいくら当時在校だった&事情を説明してとはいえ、そうした不審と思われても仕方ない連絡に対しては受け取らないというのが一般的ですが、申し訳ないですが教育に携わる方がそういった言葉のチョイスしか出来なかったとすれば「まぁ、この学校からいじめが無くなる事は今後永遠に無いだろうな」と諦めも尽きます。ちなみに私は中途半端に逃げ&耐えてしまいましたが、私の2&3年時の学級で完全不登校1人、途中から不登校3人、2年時には担任教師が休職に追い込まれたというのはしっかり記憶しています。

幼稚園・小中と思い出していく中で、少なくとも一貫して「担任・部活の顧問の先生には恵まれた」のが救いでした。特に中1の担任は発覚したいじめを全力で阻止してくれましたし(この方が居なかったら今頃…想像したくない)。
それが転じて仇となってしまったのは、「大人(教師)は良くしてくれた=大人の力を借りなければ何もできない弱者」というレッテルに繋がった事。前編でも書いた「下級生は良くしてくれた=下級生にも舐められる弱者」も併さって、中学時代の自分の精神状態は暗黒そのもの。良くしてくれた方には素直に感謝しないといけないのに、結果としてそうした方々への「負い目」を感じながら今も生きているのは、何とも情けない事だと思っています。
「同級生に拘る」のはそういう理由です。フィルター無しで俺を見ていたのは、他でもない、少なくとも俺をスクールカースト低位として認識していたあなた方しか居ないので。
ちなみに妹はその頼るべき大人にも恵まれませんでした。詳しくは書けないし書くつもりもないですが、私以上に心身を崩しつつも、諦めや耐えで鍛えられてしまった分、精神的にはかなり強い部類に入る人間に成長しました。俺と逆だったらどんなに良かった事か、と思ってしまう。

プールや大型体育館、グラウンドの複合施設、小野町B&G海洋センター。スポ少で通い詰めたが当時はいざ練習当日になると嫌でサボりたくて仕方が無かったクソガキです。

学童・思春期は結局、学力<<<<<<<<<<<<運動≦ユーモアみたいな力関係が子供間では有るので(ちなみに残念ながら学力も全然優秀では無かった)、「運動」というところで負い目を感じないよう両親は随分腐心してくれました。最低限泳げるようにとスイミングスクールに通わせ、基礎体力が身に付くよう子供会や地域の野外行事には積極的に参加させ、そして一番は剣道スポーツ少年団(何で剣道だったのかは偶々親同士の繋がりから成り行きでそうなったらしい)。ここでも大人や、教えてくれる側の上級生、下級生には良くしてもらったので、先述のレッテルは付きまとうものの随分助けられたと思います。
変なところで負けん気も強かったせいか、剣道部も中体連終わってしばらく後の段位試験、独りだけ中3で二段を落としたのが恥で恥で、何とか頼み込んでスポ少続けさせてもらって郡山市で受けて合格、それどころか高校も帰宅部にも関わらず、何の意地でかスポ少だけは頼んで続けさせてもらって三段まで毟り取った経緯が有ります。一応人並みの意地だけでも身に着ける事が出来たのは、スポ少含めた習い事や部活、通わせてくれた親のお陰です、やっぱりこの町に居て悪い事ばかりでは無かったんだなと。
ちなみに部活も随分嫌な思いしたのに続けられたのは、やっぱり顧問の先生や先輩・後輩に恵まれたからなんですかね。学校で散々な思いもしてた真っ最中でいつでも辞められたはずなのに、本当に不思議、だから自分の記憶が不確かで信用できないんです。

遅めのお昼は先述のおのタウンコムコムが出来た当初からあるラーメン司さん。背油こってり系の印象だったはずが、いつの間にやらもつ煮ラーメンが主力メニューになってました。残念ながらもつ苦手なので普通に塩ラーメン、美味しかったです。

他にも野外学習でよく行った藤堂山だったり、親の知人が運営しているオートキャンプ場だったり、少し足を延ばせばあぶくま洞だったり。寄れそうな所はいくつも有ったんですが別に観光のために来たわけでは無いので、夕方には帰路へ。わざわざ休みを貰っての訪問だったので職場にお土産を買ってそのまま渡しに行って小野町訪問は終了。

3.最後に


別段、昔の嫌な記憶を全部払拭できるような、劇的な出来事も出会いも無い、ただ幼少学童期を過ごした町をぶらぶら巡るだけの時間でしたが、前編に記載の通り、「改めて足を運び、巡るという行為」と、善意を持ってこちらの連絡に応じて頂いた方への御礼=当然ながら「嫌いだった土地の人間全てが憎いわけでは決してない」何なら「良くしてくれた人達がちゃんと居た」という、いわば自分の中での切り替えが今回の目的でしたし、凡そそれは達成出来たと思ってます。
勿論、それが今後カウンセリングの進展や持病・トラウマ・性格との付き合い方にいい影響として表れてくれるかはまだ分かりませんし、新たに「そう言えばあれは一体どういう事だったっけ…?」と、更に記憶の不確かな部分も出てきてしまいましたが、それは「幼少学童期の課題」から「成人後に解決・緩和が見込める課題」に少しずつシフトしていける問題と切り替えて考える事が出来そうなので、それだけでも収穫です。あとは中断していたnote記事まとめで「?」が出てきた時に改めて考えれば良い、それくらいには気持ちが落ち着いたものと思います。

少なくとも
「福島県田村郡小野町が絶対許せない町」
という、長年持っていたどす黒い概念を、ようやく手放す事が(今のところは)出来ました。名所も歴史もある町なので、もし気になった方が居たら、是非足を運んでみてください。
最後に、今回の訪問に応じて下さった職員さん、改めて、本当にありがとうございました。


4.補足:訪問に至った経緯(過去のいじめ・トラウマ)


心理療法に一定の成果が出るのと、内容が纏まるまで(というか更新する気が起きるまで)いったん引っ込めてますが、当noteで学童期に受けたいじめやスクールカーストの弊害について書いておりました。いくつか専門書も読み進めつつ、カウンセリングも受けながら現在進行形で対処・解決を試みている段階です。ですが、どうにも要領を得ない。そもそも過去に受けた仕打ちは果たしていじめに該当するのか、俺の記憶が解釈違いを起こしてやしないか、被害妄想による改変や増長の具合はどうなのか、等々の理由で。これまでに得られた親、親族、周囲の大人の証言は第三者の視点だから確実なので、少なくとも幼稚園~高校まで一貫して弱い立場であった・特に中学1年時と3年時には確実にいじめに該当していたのは間違いないらしい。しかしそれももっと酷いいじめの事例(旭川なんかその典型、いじめなんかじゃなく犯罪そのもの)と比較してしまうと、そもそも俺の体験なんかをいじめとして扱ってしまって良いものなのか?と。そうすると学童・思春期の俺の生きてきた時間は本当に一体何だったのか(発達過程で人格形成に一番影響するのはまさにこの時期である)、無意味そのものだったのか、すると俺の一生は最後まで無意味なもので終わるだけなのか。ASD特有なのかはたまた単に俺の病的な拘りなのか、極度に白黒付けたがる癖ゆえにこの精神状況が続くと生活そのものに支障が出てきて辛い(最近も仕事で精いっぱい、娯楽やそれこそ家事や食の生活必要動作に回せる精神的余裕が無くて躁鬱の鬱の波の方が底付き続きだった)。
不幸にも学童期に繋がりのあった同級生(正しい意味での友達は一切居なかったので友達とは呼びたくない)とは現在一切の繋がりが無い。いや、正確にはそれは嘘で、大昔登録したメアドや電話番号繋がりでLINEやFacebookに知ってる名前は出てくるのだが、今更連絡しようにも怖くて連絡出来ないし、以前1,2件ほど試みたが見事に何の返信も無かったので諦めている(普通に考えたら怪しい宗教やら商売やらの勧誘と疑われてもおかしくないからまぁ仕方がない)、それにFBではまさに中学時代にいじめを仕掛けてきた人間が家庭を持ち「友達や仲間に感謝」などと投稿しているのを見て不快極まりなかったので旧アカウントそのものを消した経緯がある(今は海外レーベルの情報閲覧用に登録しているだけ)。同級生視点から一番正確に当時の自分を知る第三者の視点を知る方法は一切失われてしまっている。
今回の訪問でもついにその機会は得られなかったが、小野小学校・小野中学校・それこそわかば幼稚園や郡山東高校でも良いので、根暗で泣き虫、そのくせ目つきだけは常に人殺しのようにキツかった「藤田」という同級生に心当たりのある人間が居たら是非連絡を下さい、よろしく。


塩竈神社の欅、そんな名前が有ったのねw
ひとまず今回の「出会い」に感謝します。