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梶井の檸檬と米津のLemon

 3年生の演習では過去のセンター試験の問題を扱います。どの年代だったか、梶井基次郎の檸檬を用いた評論がありました。

 「レモン」について。「レモン」は、子どもにとっては色彩の豊かさや酸っぱさを感じさせるものであり、大人(主婦)にとっては買い物の対象である。科学者にとっては、ミカン科ミカン類、柑橘類の黄色で酸味を帯びた植物の一種である。

 では、梶井の「檸檬」はどのような性質を持つか?という事が主題となっています。

 梶井の「檸檬」、すなわち文学としてのレモンは、その他とはまた異なる意味を持ちます。通常、レモンは各自それぞれの感覚によるもので、主観的かつ個人的なものであり、「子ども」のレモン、「大人」のレモンは一般的な傾向で説明できるものの、好き/嫌いに代表される個人の感覚に依るものになります。人によってレモンの感じ方は違う。好きな人も嫌いな人もいる。唐揚げの添え物として、レモネードとして、サワーとして。人によって違う意味を持つんです。

 それが文学に姿を変えると、それは筆者の生きている世界の全てに関わるものになり、同時に読者である私たちが作品を通じて知る作者の世界の全てに関わるものとして現れるのです。

 こうして、文学作品に登場する全ての事象は、読み手が自身とは異なる世界に触れるものとなる。その世界は自分とは違う前提で感覚であり、無限に拡がる世界に自身が関わることで、他の世界を知るきっかけとなる。文学は出会いの場でもあるんですね。

 そうした時に頭に浮かんだのが米津さんの「Lemon」。形態は違えど、同じ題材を扱ったある意味では文学作品と言えるのではないでしょうか。これは持論ですが、生徒に一般化を図るためには、身近なものを用いると良い。
 誰もが聴いたことのあるメロディー。ほとんど出てこないからこそ、際立つレモンの3文字。その匂いは、確かに刺激的で忘れられない。

 米津さんが奏でるLemonも、梶井さんが綴る檸檬も、それぞれの主観の集合体です。それを読んで感じることは別世界。でも色々なきっかけになると思う。共感しても反対しても良い。大事なのは触れることです。そうやってしか成長しないので。

 梶井さんの檸檬と、米津さんのLemonは全然似ていない。でも、それぞれの世界に関わる物語として、表現は違っても形として僕らに掲示される。それを通じて、無限に拡がる大きな世界を知る。そうやって知りえた世界でどう生きていくか。

 僕の世界ではレモンは取るに足らないものかもしれない。でも、そうではない人たちもいる。丸善を爆破させるような妄想も、あの日の悲しみさえも。そうやって別の世界を知る。

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