トイレのピエタでピクニックに行こう

好きな映画ってたくさんありますが、その中でも、何だか時々見たくなる映画がいくつかあります。その一つがRADWIMPS野田洋次郎さんが主演の「トイレのピエタ」。

手塚治虫先生が最後に描いた作品。

「一九八九年一月一五日
今日はすばらしいアイディアを思いついた!トイレのピエタというのはどうだろう。癌の宣告を受けた患者が、何一つやれないままに死んで行くのはばかげていると、入院室のトイレに天井画を描き出すのだ。周辺はびっくりしてカンバスを搬入しようと するのだが、件の男は、どうしても神が自分をあそこに描けという啓示を、 便器の上に使命されたといってきかない。彼はミケランジェロさながらに寝ころびながらフレスコ画を描き始める。 彼の作業はミケランジェロさながらにすごい迫力を産む。 傑作といえるほどの作品になる。 日本や他国のTVからも取材がくる。彼はなぜこうまでしてピエタにこだわったのか?これがこの作品のテーマになる。浄化と昇天。これがこの死にかけた人間の世界への挑戦だったのだ!」

奇しくも僕が生まれた年に亡くなった手塚先生が最後に描いたのは、生に対する強い意識でした。死ぬ前の最後の言葉は、「頼むから仕事をさせてくれ」。それほどまでに生きてマンガを描きたかった彼の遺作は、死ぬ前に何をするのか。それを映像化したのが、「トイレのピエタ」です。

園田は何となく生きているフリーター。急に降りかかってきた死に対して彼はどうすることも出来ません。身体は弱って思う通りに動かなくなります。自暴自棄になります。しかし、真衣との出会いによって、死ぬことではなく、生きることとは何かを模索するようになります。

園田にとって大切なものは、突き詰めていくと絵でした。もうやめたからと言っていた絵。でも、心のどこかに残っていた絵。最後に渾身の力を振り絞り、魂を込めて絵を描きます。

彼の死は明確なシーンでは表されることなく、絵を描き終わったあとに知らされます。それは彼にとっての生と死は絵が完成することによって完結したからです。真衣にとっては突然の出来事。園田は敢えて何も告げずに逝ってしまいました。

耐えきれずに絵を削り、自らを傷つける真衣。でも、最後の彼女の眼には確かに生が宿っていた。不器用で、同じように生に無気力だった彼女に、生きることを伝えたのは、最後に生を見出した死んだ園田でした。

ピクニックの歌詞は、この物語を追っていく形で進んでいきます。エンドロールで園田が生きた意味を思い出すのです。最後がとても好き。

「僕らは奇跡にも及ばない光 それならいっそ僕ら」

僕らの生はちっぽけで、奇跡なんて起こらない。光っているけど、大きくもなんともない。それならいっそ僕らは、生にしがみついてくしかないんです。あがいてあがいて、死ぬまであがき続けてやる。

そうやって毎日生きていければいい。でもなんもない日常ではそれに気づかないんだ。そのことに気づかせてくれる映画。

自分に出来ることってなにかな。少なくとも、今の僕には何にも浮かばないな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?