人のせいにするんじゃない

 誰かのためになにかをするんじゃないって思って、自分のため何かをする意識が大切だなあって前回一席ぶったんです。同時にその意識の後に残るのは、失敗を人のせいにするんじゃなくて、自分のせいだと考えられるかどうかだと思うんですね。

 人間に失敗はよくあります。僕もよくあります。週に1~3回くらいは失敗してますからね。いや、もっとか。小さなものから大きなものまで。以前教材で宮本輝さんの「本を積んだ小舟」を扱ったとき、作中に出てくるファーブル昆虫記が面白くて調べたんですが、昆虫には生存に関する欲求しかないんだって。だから僕らみたいに後悔したりする思考は持ち併せていないのです。

 国語の教科書って退屈なように見えて実は面白い(と僕は信じています!!)。「猫は後悔するか」という評論だと、人間以外の動物は後悔しないらしい。なぜ?それは複雑な言語を持ちえないから。読んでいると、なるほどなと思わされます。ありえない想定ですが、もし言語が無かったら?気持ちが伝えられないのはもちろんですが、まず思考することが出来ない。認識は現実のみになる。そうすると別の可能性を考えることが出来なくなる。「後悔」の裏には、実現できなかった可能性の世界が無限に拡がっている。もしもボックスですね。その想定は構造的な言語を以て、初めて可能になる。「ハキリアリ」という小説では、アリの潔さに感動する場面がある。それは、生存欲求によるもので、私たちが容易に出来ないことを彼らは平然とやってのけることを深遠だとしている。でもそれは高次な視点から眺められるからである。これは無限ループなんです。どちらが良いかは分かりません。

 さて、失敗すると人は原因を求めますよね。つまり反省。次に活かすため、同じことを繰り返さないため。これは人間のとても良いところなんです。頭が、というか思考が発達したせいで、僕らは生存欲求以外の面で他者とも関わって生きていかざるを得ない。そんな中で日々小さなことにも大きなことにも反省してるわけです。

 その反省について。責任の所在をどこに求めるべきか。誰かのせいにするのはぶっちゃけるとめっちゃ楽です。「自分は出来ることをやった」ということを恣意的に認めてしまうし、客観的な視点を持てなくなるし。自分は悪くない。他の何かが悪い。対象となる人が悪い。そうやって自己弁護に走る。自分への痛みが怖いんでしょう。自分への痛みは、今まで積み上げてきた(つもり)のものを壊しかねない。極端に言うと、逃げ。そしてその逃げは責任転嫁であり、自分のためになることはあまりない。

 もちろん、冷静に考えると他者に原因があることもあります。特にチームを組んで何かをしようとする場合は。しかし、まずは自分に立ち返るべきじゃないかなって僕は思います。失敗の原因はどこにある?確かに外的要因はあるよ?でも、結局自分の判断で決まったんじゃないか。あのね、誰かに支えられるんですけど、主体は自分以外の何物でもないんですよ。

 「自分が悪い」って認めるだけで、どんなに楽になるか。他者に責任を求めるのは甘い密の味。自分を守るためのただの一瞬の気休めです。還ってくるよいつか。そんなのはいらない。大事なのは自分がどう捉えるか。

 「自分は悪くない

 それはとても楽な考え。でも自分は変わらないよ。そして、同じ過ちを繰り返す。そしてまた人のせいにする。おんなじ所で永遠に廻っていてもつまらない。

 まずは自分。その意識を少し持つと、楽になる。

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