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アダムとイブ #1


 寒くなってきた十二月のある日。ゼミの打ち上げに参加した。僕はその他大勢と同じで、勉強に一生懸命な学生じゃあない。なんとなく単位を落とさないように授業に出て、なんとなくサークルに参加して、飲み会が開かれたら参加して、日によっては朝までカラオケで騒ぐ。そして時々出会った女の子と酔っぱらった勢いであとくされなく寝る。そう、一般的で健全な東京の大学生の過ごし方。  

 ゼミはとりあえず人数が多くて緩そうなところに参加した。研究したいテーマなんてないけど、卒業できないと色々と困る。だったら人数が多い方が一人の学生を見る機会は減るだろうし、ひょっとしたら誰かが助けてくれるかもしれない。卒業まであと一年少々で、就活も始まっている。特に働きたい業界も会社も決まってないけど、とりあえずは周りと一緒に説明会に参加して、最終的にどこかの会社に潜りこめればいい。  

 中間発表が終わったということで、みんな浮かれていた。池袋の学生向けのチェーン店、量だけは特大で味なんか気にしない学生のお腹を満たしてくれる。アルコールはもちろん飲み放題で酔えればOKだ。最初の乾杯でそんなに美味しくないビールを空けて、思い思い好きな酒を飲んで、料理を摘む。ゼミの内容なんて話さなくて、専らサークルのバカ話とか、就活の失敗話とか、誰それの恋愛話とか。ただそうやっているだけで楽しい空間。何かを産みだすわけじゃないけど、だらだらと過ぎていく。そんなのが実は嫌いじゃない。  

 一時間くらい経って、トイレに立った後に席に戻ってみると、見たことあるけど名前の知らない誰かが座ってる。仕方ないから、自分のグラスだけ持ってとりあえず端っこの空いてる席に座る。少し酔ってはいるけど、こんな時僕は少し冷静になって周りを見渡すことにしている。そうすると、なぜか気が楽になるからだ。  

 僕は自分自身が別に好きではない。将来やりたい事も無くて、一生懸命に打ち込んでいるものもない。趣味も人並み。そんな自分には特に何もないなって、ぼんやりと感じる。ただ、周りの人たちを見ると僕と同じなのかなって考えたりできる。もちろん、他の人がどう考えてるかなんてわからない。何かに全力で取り組んでいる人も、将来の夢に向けて全力で頑張っている人もいるかもしれない。でも、少なくともこの場ではみんな一緒に見える。  

「ねえ、なにやってんの」  

 ふいに声を掛けられて振り向くと、グラスを持った黒髪でショートカットの女の子がこっちを見ていた。  

「別に。普通に飲んでるだけだよ」  

「一人で?あっちでみんなと飲めばいいじゃん」  

「トイレから帰ったら席が無かったから。そっちこそ何してんの」  

「一緒だよ。ちょっと外で電話して帰ってきたら席が無かったの。そこ座ってもいい」 

  断る理由は無いし、急に話しかけてきたこの子にちょっと興味が湧いた。ここにいるって事は同じゼミなんだろうけど見覚えはない。向かい合って座る。席に着いた彼女は、少し息をついた後に話しだした。  

「私さ、あんまり大学行ってないんだ。今日も久しぶりで、話合わせるのが大変でちょっと疲れちゃったよ。君は?」  

「普通に行ってるし、ゼミもちゃんと出てるつもり。確かに見たことないね。えっと、何さんだっけ」  

「まだ名前言ってない。山本亜沙美。アサミでいいよ。そっちはなんていうの」  

「笠井達樹。初めまして」  

「タツキ君ね。よろしく。とりあえず乾杯しようよ!」 

  笑顔になってグラスを合わせようとする彼女に、こっちも釣られてグラスを出す。今日何度目かの乾杯。グラスを合わせると「チン」と音が鳴る。賑やかな居酒屋の中で妙にその音が耳についた。ぬるくなったビールを少しだけ飲む。彼女は一息でグラスに半分残っていたビールを飲み干した。 

 「あー、乾杯って杯を乾かすって書くんだから全部飲まなきゃ駄目なんだよ」

 「知ってるけど、ぬるいビールって一気に飲み干すと全然美味しくないじゃん」 

 「それはそうだけど。でも私は頑張って飲んだのにさ」 

  別に頑張らなくてもいいんだけどな。そう思いながらも、僕は残ったビールを飲み干した。 

 「ほら飲めるじゃんか」

  そういってまた笑う彼女。俯瞰体制になっていた僕は、そこで初めて彼女をちゃんと見た。グラスを持つ指は細くて長くて爪は濃い赤。化粧っ気のない顔で唇は爪と同じ色をしている。でも一番目についたのは猫みたいな目。表情に合わせてくるくると動く彼女の目を、意図せず僕はずっと追っていた。

 「あの、タツキ君さ、ずっと私を見てるよね。結構恥ずかしいんだけど」

 これは僕の悪い癖でもある。老若男女関係なく、その人の身体のある部分に気になる部分があると目が離せなくなるんだ。それは細くて折れそうな指だったり、形の良いふくらはぎだったり、盛り上がった腕の綺麗な刺青だったり、少し尖った顎だったり。このせいで怖そうな人に絡まれたことも一度や二度じゃない。

「ごめん、なんか気になった人がいると見ちゃうんだよね。だから気にしないで」

「なにそれ。気になるってって言われて気にしない人いないよ。大体の人が余計気になっちゃうと思うけどな。じゃあ私のどこが気になったのか教えて」

 こんな時、いつもなら男の人なら「髪型がかっこいい」とか女の人なら「服がかわいい」とか言ってうまく誤魔化すんだけど、上手い言葉が浮かばなかった。

 「いや、アサミさんの目がね、なんか気になって」

 「え、目?私の?」

 「うん、なんでかな」

 「私に言われても分かんないよ。そんなこと言われたの初めてだし」

 びっくりして不思議そうに僕を見る彼女の目に、また惹きつけられる自分がいた。何と言っていいかわからずに黙る僕を見て、また彼女は笑う。

 「よくわかんないけどいいよ。タツキ君ってなんか面白いね」

 それからしばらくの間、たわいもない話をした。好きな音楽(邦ロックと洋楽)、本(村上春樹と女流作家)、映画(グレムリンとかスタンドバイミー、インディー・ジョーンズ)。大学やバイト先の話、後はくだらない馬鹿な友達の話とか。彼女の話すことは僕と重なるところもありつつ、今まで知らなかったことにも触れられて新鮮だった。

 「皆さん、そろそろお会計集めますよー」

 気付けば飲み放題の九十分も過ぎていた。そろそろお開きの時間になって、幹事の二人が呼びかけてる声が聞こえてきた。修治と涼子は美男美女で、いつもゼミの飲み会を仕切ってくれて、面倒見が良くて、誰からも慕われている。僕も学校や飲み会でちょくちょく顔を合わすし、会えば必ず声を掛けてくれる。それでいて嫌味が無い、どこの集団にも一組はいる大学生の理想的なカップル。

 「ねえねえ、あの二人ってさ付き合ってるんだよね」

 「そうだよ。いつも飲み会の幹事とかやってくれてる」

 「お似合いの二人だよね。幽霊ゼミ員の私のこともちゃんと知ってるんだから凄いよ。ほとんど話したことないのに」

 「二人とも優しいし、人脈も広くてみんなと仲が良い。ノートも貸してくれるし、休講通知もどっちかがラインで知らせてくれる。うちのゼミはあのカップルで成り立ってるとも言えないでもない」

 「そうなんだ。ちゃんと顔と名前覚えてもらっておいたほうがいいかな」

 そうこう話してると近づいてきた。僕と彼女を見て目を丸くしている。

 「タツキ、一人三千五百円。えっと、アサミちゃん?」

 「修治、お釣りある?アサミが飲み会に来るなんて珍しいね。にしてもこの組み合わせは?え、タツキ君とアサミが仲良しなんて全然知らなかったんだけど、ひょっとしたら付き合ってるの?」

 興味津々な二人。それはそうだろう。ゼミにいても目立たないごく普通の僕と、全然ゼミに来ない彼女。皆と仲の良い、つまり男女関係についても詳しいはずの二人にも想定できない組み合わせだったんだろう。

 「違うよ。たまたま会ってさっき初めて話した」

 こういう時はちゃんと否定しておくに限る。

 「そっか。アサミちゃん、こいつ掴みどころないけど、良い奴だから友達になってあげて」

 「タツキ君はちゃんと勉強も就活もしてるし真面目だもん。私たちも見習わないと。アサミもいつでもゼミにも飲み会に来ていいからね。タツキ君、仲良くなったんなら連れてきてよ。二人お似合いかも、ほんとにカップルに見えたもん」

 少し喋った後、お金を渡すとまた別の席に歩いていった。

 「あの二人お似合いだよね。ちゃんと私の名前も覚えてたし。なんかお互いを信頼し合ってるって感じ?それよりさ、私たち付き合ってるように見えるんだって」

 「いつもあんな感じだよ。一年の時から付き合ってるんだから。そうみたいだね、ごめん」

 「なんで謝るの?嫌じゃないよ。だって初めて会った人とこんなに話せたことないから」

 僕も同じだよ。とは言えなかった。だって、僕も同じだったから。彼女は悪戯っぽく笑って言った・

 「ねえ、このまま付き合ってることにしない?タツキ君と仲良くしてる方がこれからゼミにも顔出しやすくなりそう」

 ぐらりと心が揺らいだけど、僕もそこまで馬鹿じゃない。

 「それは止めとこうか。説明するのが難しいし」

 「えー、いいアイデアだと思ったんだけどな。ま、いいや」

 少し残念そうな目の彼女からわざと目をそらした。

 皆に合わせて、僕らも席を立った。エレベーターで下まで降りると皆が溜まっている。少し友達と喋っているうちに彼女はいなくなっていた。多分この後はいつもと同じで二次会でカラオケに行って朝までコース。修治と涼子が出欠を取っている。冬の風が冷たい。なんとなく今日は二次会に行く気分になれなかったから、誘いを丁寧に断ってから耳にイヤホンをして駅に向かって歩いた。終電間際、急ぐ人たちに交じって少し早足になる。

 ぎりぎり間に合った山手線のホーム。並んでいると急に肩を叩かれた。

 「やっほー。やっぱりタツキ君だ。カラオケ行かなかったんだ」

 イヤホンを外した僕に、屈託のない笑顔で話しかけてくる彼女がいた。そのままの流れで同じ電車に乗り込む。

 「久しぶりにゼミに行ったけど楽しかった!行ってみるもんだね」

 「そう。それは良かった」

 「あのさ、またゼミに行くときのために連絡先教えてくれない?」

 「いいよ」

 そんな流れで、アサミとLINEを交換した。新宿で僕は総武線に乗り換える。

 「じゃあ、また」

 「またね。あのアイデア、私は悪くなかったと思うよ」

 そういって手を振った彼女を見届けて、僕は反対車線の総武線各停に乗る。おかしな一日だった。

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