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髭男の「115万キロのフィルム」という曲を通してmale gazeを覗く

Twitterで男性目線の乳がん検診ポスターを見かけたので、2年前に髭男の曲を聴いた感想を書こうと思った。
ちなみに男性目線の乳がん検診ポスターの例はこちら。

さて本題。

髭男の「115万キロのフィルム」(以下115と略す)という曲はなんだか男性受けが良い。周りの男性からの反応を見てそう感じた。私はpretenderなども好きだけど、「115」という曲についてだけは言いたいことがある。

主演はもちろん君で
僕は助演で監督でカメラマン

冒頭の歌詞が流れてきた瞬間私はゾッとした。まるで背後から誰かに監視されているような。

この気持ち悪くなった原因が知りたいため、歌詞を読み返した。

まずこの曲の主人公たちの性別を分析しよう。
第一人称が「僕」だから、主人公の1人が「男性」だと判断しよう。
日本語は便利だね。

きっと10年後くらいにはキャストが増えたりもするんだろう

という歌詞から、10年後に子供が産まれたと推測できる。
つまり「僕」が生殖可能な男性で、
冒頭で「僕」が話しかけている「君」は生殖可能な女性だと分かる。
(養子引き取りという可能性は考慮しない)

今でも余裕なんてないのにこんな安月給じゃもうキャパオーバー!
きっと情けないところも山ほど見せるだろう

この歌詞から「僕」は安月給だと分かるが、
「君」の収入は推測できない。
ただ重要なポイントはここじゃない。

「安月給」で「キャパオーバー」だから推測できるのは、
「僕」は自分の月給だけで家計を支えられるかを判断している。
最初から「君」の稼ぎ能力なんて「僕」の眼中にはなかった。

苗字がひとつになった日も

この歌詞から主人公2人が結婚したと分かる。
以前の文章に日本文化にある「同じ苗字になる幸せ」について書いたことがある。
これは「所有される/物にされる幸せ」だと私は考えている。

では振り返って最初の私がゾッとしたセリフを見よう。

主演が女性の「君」
助演と監督とカメラマンが男性の「僕」

普遍的な認識で考えれば、
主演がいくら注目され輝いても、
決定権や主導権など何一つ握っていない。
ただ見られるだけの側。

(助演と)監督とカメラマンは目立たないけど、
作品の仕上がりのクオリティーを全て支配している側。

あまりにもmale gazeにハマりすぎて呆れた。

私がゾッとしたのは、まさに自分が何一つ決定権を持たないまま、
ただ永遠に見ものにされ、死ぬまでmale gazeされ続けるだけの人生

男性にはこの気持ちは理解し難いのだろう。男性にこれ以上都合の良いシチュエーションがないんだから。

撮影を続けよう
この命ある限り

最後のこの歌詞がもはやホラー。

お前は助演だけでいい。
監督とカメラマンは私が自分でやる。

終わり。

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