探し物の話

人間誰しも、何かしらものを失くす経験というのは一度や二度では済まないだろう。

ぼくももちろん例に漏れず、よくものを失くす。

最近はかなり減ったが、中学高校の時は特にプリントやら提出物やらがとにかく多く、それに比例するようになくしものの数も多かった。

すぐに見つかるものであれば5分くらいで「なんだよお前、どこ行ってたんだよ!笑」くらいの程度で終わるのだが、これが長期戦になるとなかなか厄介である。

しかも大事なものこそ見つからない。成績に関わるような大事なものが失くなり、「あいつは今どこで何をしているのだろう…」などといなくなってしまったあいつに思いを馳せ、焦りや不安や怒りや情けなさや様々な感情を抱えながら散らかりに散らかりまくった部屋を這いつくばりながら捜索する作業は、心身共に非常に疲弊する。

もう一生見つからないんじゃないかなどと思い始め、なんならもうちょっと泣いてすらいる。

そういえばたしか高校生の時、例によって提出しなければならないワークを失くしてしまい、この時はかなり厄介で小一時間探しても見つからず、一生見つからないんじゃないかモードに入ってもう限界を感じたため、最後の砦として母親を部屋に招いたところ彼女はものの5秒で見つけてしまったという逸話がある。ああやっぱり俺はこの人には逆らえないなと改めて思った次第である。

ちょっと横道に逸れたが、しかしこの「ものを探す」という行為において、見つかった時の喜びというのは何物にも代えがたいものがある。

特に失くしたものの重要度が高ければ高いほど、あるいは捜索時間が長ければ長いほどその幸福度というものは比例してどんどんと大きくなっていく。

長期戦を制して見つけた時などは、どこに隠れてたんだお前は!などという怒りは通り越し、よくぞもう一度俺の目の前に現れてくれた…ありがとう…とその書類および提出物を抱きしめてやりたくなるような気持ちになる。

この探し物が見つかった時の喜びや安堵感というのに勝てるのはあるのか?と思う。

先日も、探し物とはちょっと違うがアプリをダウンロードしたはいいもののそこからの設定でずっと上手くいかず、ストレスが溜まりに溜まっていたのだが、急に事態が好転して最後まで設定を終わらせることができた。

この時も探し物が見つかったのと同じような感覚に襲われた。達成感とはまたちょっと種類の違う幸福感である。俺はいま世界で最も幸せな男なのではないかとバカみたいなことを考えてしまうくらいである。

見つかった時の嬉しさというものが計り知れないほど大きなものであるため、ちょっと適当に生きて、たまーに大事なものなんか失くして、必死になって探して見つけるみたいな生き方の方が楽しいんじゃないかとは少なからず考えちゃうのである。そんな大事ものなんて失くさないに越したことはないに決まっているのだが。

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