文句と幸せと選択と結果と責任の話

最近、タイトルを考えるのがめんどくさい。
「思い出がいっぱい」という曲がある。40年以上前の曲だが、曲名で検索したらメイジェイさんが出てきた。音楽の教科書に採用されたこともあるそうだ。

世の中どこにでも文句ばかり言っている人がいる。みなさんのお近くにもいるだろう。彼らは文句は言うくせに自分では何もしようとせず、いつも被害者のような顔をしている。そのことを指摘すると、3つのタイプに分かれる。あくまで私調べだが。
1人目は、言い訳を二転三転させるタイプ。2人目は、俺が悪いの?と逆ギレするタイプ。3人目は、どうせ俺のせいなんだろと開き直るタイプ。
どのタイプでも自分は悪くないと言う態度を貫くことに違いはない。

私は最近、彼らが幸せは誰かが運んでくれると信じている大人の階段を登るつもりのないシンデレラだと気づいた。
彼らは、自分の選択と結果に責任を取りたくないだけなのだ。自分で選んだこともその結果も、全て自分以外の誰かの何かのせいという考え方をしている。目から鱗が落ちる思いだった。
だから、彼らは文句を言い続けるのだろう。言えば誰かがなんとかしてくれるから。誰かのせいにできるから。

大人の階段を登るつもりのない人たちの周りにはなぜか、彼らの人生と責任を背負ってくれる付き合いのいい人がいる。
親であったりパートナーであったり友人であったり、付き合いの良さには感心してしまう。背負う人たちは人に必要とされたい人たちなのかもしれない。共依存というものなのだろうか。あまり興味はないが。

私は、自分の人生においては絶対に自分で責任を取りたい。仕事ではたまにすっとぼける時もあるが。
自分の足で立って、歩いて、自分の手で成功も失敗も幸せも不幸も掴みたい。それが大人になることだと思っている。
そう考えている私にとって、自分で選択をしないこと、責任を取らないことは、生きることや幸せを放棄することのように思えてしまう。
文句を言って責任から目を背けている人の上に、突然金貨が降ってくることなどあり得ない。現実的には、幸せの形は人それぞれなのだから、彼らに幸せを運んでくれる人もいるのかもしれないが。

なぜ、彼らが自分の選択と結果に責任を取らないと気づいたのか。ある共通点に気づいた。
まず、彼らはスピや陰謀論、占いにハマっている。私の見た彼らは程度の差はあれど、この手の胡散臭いものが好きだった。コロナ以降、軽めの占いファンだった人が立派な反ワクになり、陰謀論者になっていた。
そして、彼らは努力はしない。文句は言うものの、呆れるほど頭と手と足を使わない。文句と言い訳と逆ギレの言葉は豊富に口から溢れ出るのに、建設的な意見は何も出てこない。不満を解消するための行動は何一つしない。

スピや陰謀論は、自分の人生の責任を誰かに押し付ける考え方をしている。ディープステートや星の巡りや神秘の力や霊の責任にする。だからあなたは悪くない、というわかりやすい代わりに現実的ではない言葉に飛びついてしまう。
それらの考え方は「財布の紐と気を引き締めて、文句を言わずに実直に効果のある努力を続けろ、努力の方法は自分で探せ」とは言わない。

そう気づいてから、私は大人の階段を登るつもりのない彼らが大好きになった。
私は性格が悪いのだ。彼らが永遠に幸せにならないことを確信した。それ以降、積極的に彼らの無駄な文句を肯定するようになった。もちろん、責任を肩代わりすることなどしない。肯定するだけだ。
彼らを喜ばせるためではない。ダメな人間がさらにダメになっていくのが楽しいだけだ。

精神的に自立していないお子様は、こうやって他人の餌食になる。私は彼らの言葉を肯定して楽しんでいるだけなのだから、かわいいものだろう。
わけのわからない占いやグッズに金を毟り取るスピ系教祖様に比べれば天使のような存在だ。だからある程度の年齢になったらさっさと精神も大人にならなければいけない。

自分の頭と手と足を使うのは面倒に思うこともあるが、世の中には私のような優しい人間だけではない。恐ろしく頭が良く、恐ろしく悪い人間がいる。
そういう人のおもちゃにならないよう、しっかり自立して生きていきたい。

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