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ぼくのBL 第四十一回

 アイドルという生き方 (20240104改訂)

【長文注意】

「うえぴーは最近すっかりアイドルに沼ってるよなー」
 ぼくを少しでもご存じの方なら苦笑まじりにこう思っていることだろう。

 最推しのアイドルが卒業し、9月にぼくは燃え尽きた。
 そのはずだった。
 それが間違いだったことに気づいたのは、10月下旬。
 ドルオタになるきっかけになった仮面女子が参加する大型の対バンライブイベントに参加したときのことだ。
 せっかく参加するなら、出るアイドルを片っ端から調べてMVを見て、良さそうなグループの特典会に参加しようじゃないか、ご新規さんは無料チェキとか撮れるし。そんな下心から、見たことも聞いたこともないアイドルの検索をするようになった。
 それこそ無限とも思えるほどに多くのアイドルが存在することは、ごく最近になるまで知らなかった。
 調べれば調べるほどに、それぞれが多彩な売り方をしていることがわかる。
 音楽性、ダンス、ファッション。
 MVを見てピンときたアイドルは現地で観ることにした。
 ここで取捨選択をしたのは、ぜんぶ観ていると特典会に行く時間がなくなってしまうから。けっこう真剣にタイムスケジュールを組んだ。
 そんな最中だ。
 この記事を掲載しているnoteで、アイドルが書いている投稿を発見したのだ。
 その時点で名前だけは辛うじて知っていたグループ、Love Cherishの志田千鶴というアイドルが筆者だった。
 この記事のヘッダの写真に写っている。右から3人目、赤の衣装の子だ。
 
 最初に読んだ投稿がこちら。


 タイトルからしてアイドルらしからぬ雰囲気が感じられたぼくは、吸い込まれるように本文を読んだ。
 驚いた。
 地下アイドルがいつも直面している「動員」について、それらを取り巻く業界の現状と、それに対しての彼女が感じる率直な違和感。そういったものが赤裸々に、しかし論理的に語られていたのだ。外部の人間ではなく、渦中にいるアイドル本人の文章で。

 次に読んだ記事で気持ちは固まった。

 ぜひ直接会ってお話ししたい。
 先日その願いが叶い、noteを読んだ感想をチェキ会で述べることができた。
 
 前回(第四十回)の文章は、この出来事に触発されて書いたものだ。
 それを彼女は読んでくれた。アイドルに関する文章を、もっと読みたいと言ってくれた。
 
 この半年ちょっと、アイドルに関する文章は多く書いているが(特に第十二回以降はほぼリアルアイドルの話だ。本の話題がメインのnoteのはずなのにどういうことなのだろう)、それらはリアルタイムに経験し感じたことを羅列した日記に近いものだ。
 だから、ここで少し立ち止まり、自分の過去に思いを馳せてみることにする。子供の頃からのアイドル体験についての昔話になってしまうので、興味のある人だけ読んでいただければ幸いだ。
 
★ これまでのアイドル遍歴
 
 さて、ぼくの最初のアイドル体験はというと、レモンエンジェルだ。(以下wikipediaより引用)

 1980年代の深夜テレビは質の高い番組が多かった。
 今では見る影もないが、当時のフジテレビの深夜帯は実に面白い番組が多く、中学生のぼくは夜更かしをしてテレビにかじりついていた。
 まだビデオレコーダーが自宅に導入されて間もない頃だったと記憶している。
 「カノッサの屈辱」(様々な業界の勢力争いを歴史の教科書風にパロディ化したもの)
 「文學と云ふ事」(日本の近代文学の名作を30秒の予告編にして、それに付随した内容紹介をしたもの)
 「アメリカの夜」(映画の撮影に関して、それぞれの役割を解説したもの)
 「IQエンジン」(多胡明の名著『頭の体操』のショートコント化)等々。
 それらの番組に混じって放送されていたアニメが「レモンエンジェル」だった(気になる方は上記のウィキペディアで参照のこと)。
 メディアミックスが台頭してきた時代だ。
 このアニメも、声優にはプロではなくアイドルを起用しており、アニメとリアル活動の二本柱で展開していた。
 まさしく中二病の適齢期(?)に そのリアルアイドル「レモンエンジェル」が近くのショッピングモールに来ることになったのだ。
 ライブ! 特典会! 自転車で行ける場所にアイドルが来る!
 中二のぼくは歓喜した。
 特典会というのは、そのときに生まれて初めて経験した。14歳のころだ。
 無料で見られるライブの終了後、レコードを購入するとジャケットにサインがもらえて、少しお話しができ、握手もしてくれるという内容だった。
 それまでアイドルという存在はテレビやラジオというメディアで一方的に受けとるだけの存在だった。
 それが、直接触れ合うことができる上、会話までできるとは。
 「地下アイドル」という概念など存在しない頃のことだ。
 今の基準に照らせば間違いなく地下にカテゴライズされると思う彼女たちが、ぼくのアイドル活動の原点であったことに、今さら気づいた。35年前の話。
 
 そこから長らくアイドル空白期間が続く。
 学校、部活、恋愛、就職と、自分のライフイベントに精一杯だったから、アイドルに目を向ける余裕もなかった。
 忘れていたと思っていたアイドル熱が再発したのは10年ほど前。
 もともとライブやお笑いや芝居が好きだったぼくは、「やついフェス」という、音楽・アイドル・お笑い・文化人などが一堂に会したサーキットイベントに参加した。これはコロナ禍を経た現在も毎年開催されている。
 そこに出演したNegiccoという新潟のローカルアイドルを観た。

 Negiccoを観ようと思ったきっかけは、ミュージシャンのレキシだ。
 歴史を題材に質の高いポップを作る人で、「きらきら武士」という曲にハマったぼくは、彼が参加するやついフェスに行こうと思ったのだ。(ちなみにフィーチャリングされているDeyonnaは椎名林檎)


 そのレキシが当時最新の曲を提供しているアイドルがNegiccoだった。
 新曲「ねえ、バーディア」が披露されるかもしれないと思って会場に入ったのだ。


 その時点で結成10年を経過していた新潟の地方アイドルグループという情報くらいは知っていたが、20年ぶりくらいに間近で見たアイドルの破壊力は計り知れなかった。
 ステージが終わって、呆然としていたと思う。
 彼女たちが放つきらめきに身を焼かれたのだ。
  そこからしばらくはNegiccoに薄くハマっていた。ライブの円盤を買う、車で1時間程度の場所でライブをすれば行ってみる。その程度だが。
 特典会に参加するということもなく、徐々に熱は醒めていったが、今でも新曲が出ればMV鑑賞をする程度には好きを保っている。

 次に来たのはボカロだ。
 市井の在野ミュージシャンにプロ転向の契機を与えたという意味合いで、すごいコンテンツだと今でも思っている。

 そして直近ではアイドルマスターにハマった。
 アイドルをプロデュースするというゲームなのだが、ぼくの担当はシンデレラガールズというもので、190人ほどのアイドルが所属しているものだ。
 これは以前どこかで書いたと思うので割愛する。
 初めて小説を書こうと思ったのは、このコンテンツのおかげだ。二次創作ではあるけれど。

 大急ぎで過去を振り返ってきた。
 あまり自慢できるようなアイドル遍歴ではないことがお分かりいただけたと思う。

 翻って現在に話を戻す。

 アイドルを星に例えることはよくある。
 ぼくがアイドルに対して持つイメージは次の引用に近い。

 人間は自分のためだけの何かに対して生まれてきているはずだ。自分のためだけの何か、それが夢というものだ。流星たちでさえ、ただ光り輝くためだけに生まれ落ちてくるではないか。

『流星たちの宴』白川道

 たくさんのアイドルを観るようになって、この思いはより強くなっている。
 ぼくはなぜアイドルに惹かれるのか。
 それは、アイドルたちが命を削って光り輝いている姿が、ぼくの背中を押してくれるからだ。
 向上心をなくし、怠惰な日常に埋もれ、自分を成長させようとする気持ちを忘れてしまいそうになるぼくの背中をそっと、時に激しく揺すぶってくれるからだ。

 そんな中で、ぼくは千鶴さんに出会った。
 群雄割拠の地下アイドル界で必死にもがきながら輝いている姿を、ぼくの目が捉えた。
 改めて彼女のnoteを読んで、タイトルを見た瞬間に「これヤバいやつだ」と思った記事がこれ。

 読んで予想通り泣いた。
 ファンに対する最大級の賛辞であると同時に、ライブでペンライトを振ることの意味を提示してくれる名言が連打され、いつのまにか涙が頬を流れていた。応援することは無意味じゃないということを教えてくれた。
 SNSでもいい、特典会で直接話せるならもっといい。そこから掬い取ってくれた情報によってそれぞれの赤が違った色合いに見えると言われたら、これからペンライトを振ることにもっと意識的になれそうな気がした。

 千鶴さんのこの記事を読んで思い出した曲がある。
 ぼくの悪い癖で、また引用が続く。申し訳ない。
 ここから先は、アイドルを題材にした曲をフィーチャーしながら、ぼくのアイドル観を語ってみたい。
 
 先述したアイドルNegiccoの「愛は光」だ。
 作詞・作曲 堀込高樹。
 この名前だけでぼくは白米が2杯くらい食べられる。
 KIRINJIだ。その昔に聴いた「ブルーバード」で惹き込まれ、「エイリアンズ」でノックアウトされたアーティストだ。
 この曲は、アイドルから見た、ファンとの温かな魂の交流を抒情的に表現した曲になっている。


この舞台から臨むフロアは
まるで小さな銀河
サイリウムが儚く揺れてる
ひしめきあう星の群れ
素敵ね

 アイドル視点から歌ははじまる。まるで自分がアイドルになったかのような錯覚を覚えるほどのリアリティだ。

ダイヤモンドも
ガラスのビーズも
光があるから輝くの きっと

 玉石混交のアイドルだけれど、光(サイリウム)があるから輝ける。自分がダイヤモンドなのかガラスのビーズなのかわからないけど、という不安が表現されているように感じられる歌詞だ。

ああ、わたしが月なら太陽はあなたよ
光は愛、愛は光ね
それこそが本当のことです

 これまでずっと、わたし(アイドル)=月、あなた(ファン)=太陽になぞらえた例えの秀逸さに目が行ってしまっていたけれど、千鶴さんの文章を読んで気づいた。
 もっと大事なことを言っているのは、実は次の行の「光は愛、愛は光ね」なのではないか。アイドルとファンの、照らし照らされる相互関係を簡潔に表現している。
 そもそも曲のタイトルが「愛は光」なのだ。何を見過ごしていたのかと自分を責めたい気分になった。
 
 光が示すもの、それはファンが振るサイリウム、そしてアイドルが発している輝きだ。
 千鶴さんが書いているように、ファンひとりひとりに違った背景がある。同じ色のサイリウムだって、それぞれに見え方が変わる。

 この歌ではまず、アイドル=月、ファン=太陽と定義されるが、1コーラスの後半でこの構図は反転する。

ああ、わたしだって太陽
あなたを照らしたい
授かった愛を輝きに変えよう
惜しむことなく


 数年前までのぼくは、アイドルの輝きをファンが一方的に受けとるだけのものだと思っていた。
 それがアイドルマスターに触れ、リアルアイドルを知り、ライブに参加するようになり、千鶴さんの文章を読んで、考えが変わった。
 ぼくたち(オタク)が振るサイリウムがアイドルの活力になってもいることを実感できるようになった。
 
 舞台上で笑顔を振りまくアイドルにも、光だけでなく影の部分もあることは重々承知している。
 つらい現実を抱えながらもファンには微塵もそんなことを悟らせず、その一瞬にすべてを出し尽くす、アイドルという生き方。

授かった愛を輝きに変えるよ
燃え尽きるその時まで

 この歌のラスト。1コーラス目の「授かった愛を輝きに変えよう」という部分が、「輝きに変えるよ」と強い意志表明に変わり、「燃え尽きるその時まで」と締められる。

 ぼくにできることといえば、光り輝く流星であるあなたたちを、見守り、応援することくらいだ。
 しかし、ぼくが発する幽かなサイリウムの光が、少しでもあなたたちの心の支えになってくれるなら、この時代に生きている意味がありそうな気がしている。
 「愛は光」を聴きながらこの記事を書いているけれど、涙がとめどなく流れている。
 アイドルという存在の気高さ、美しさ、優しさ、眩しさ、そういったものの掛け替えのなさを感じて。
 いつか燃え尽きることがわかっているからこそ、いまこの時が大事なのだという儚さを感じて。
 でも、だからこそ、1つ1つのライブに真剣に向き合い、真剣に騒ぎ、真剣に応援し、真剣にニコニコしたい。

 取り留めのない長文になってしまいました。
 どうしても先延ばしできない気持ちで勢いのまま書いたものです。なにとぞご了承ください。

 そして明日からもぼくのドルオタ人生は続きます。
 アイドルにとっての太陽になれるよう、心を込めてあなたたちの応援を続けます。
 それでは、今日はこのへんで。

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