大学のジェンダー論とダンサー生活の狭間で「女らしさ」に葛藤した話

■執筆のきっかけ

私がこれから話すのは、昨今なにかと話題になりやすくなっている、ジェンダーのテーマです。「女らしさ」と「男らしさ」って何だろうという話をしたいと思っています。

最近の気づきではなく、実は大学生のころ(3年ほど前?)から、ずっと持っていた私なりの考えです。今までは「こんなこと公に言ったら批判されるかな」とか「私の解釈は間違っているかもしれない」という怖さがあって、不特定多数の人に発信することはしませんでした。

でも、いつだって「私の解釈は正しい」と信じ切ってはいけないし、常に疑い続けて、知り続ける姿勢が大事であることは変わらない。だから「間違っているかもしれないから発信しない」というのは、それこそ間違っている気がする。そう思ってやっと勇気を出して全部書いてみました。

初めてのnote記事なので、拙いですが、最後まで読んでいただければ幸いです(そしてこの記事を開いてくださった時点で、大感謝です)

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■大学生活、ジェンダー論との出会い

はじめて”ジェンダー”という概念と向き合ったのは、お茶の水女子大学に入学してからのこと。

当時のお茶大は、授業名が「○○学とジェンダー」とか「ジェンダー経済学」みたいな、何を専攻しても一度もジェンダーに触れずに卒業できる人はいないだろうというレベルで本当にジェンダー論が学べる大学。特に私は、社会学系の専攻だったので、尚更しっかり勉強するコースだった。

教育の時点で「女らしさ・男らしさ」のすり込みが始まっていること、世の中には女性を消費するコンテンツがたくさんあること、LGBTQのこと…。その中には元々知っていたこと、薄々感じていたこと、初めて気づいたこともたくさんあった。

とにかく最初は、私って今までなんて能天気なやつだったんだろう、という感情が湧いた。私は自分の性別について悩んだことも、何か押しつけられて憤りを感じたことも、ほとんどなかったと思う。


■「女」に疑問を持たなかった日々

私は生物学的に「女」、他人から見ても「女」と思われるような容姿をしていて、自分のことも「女」だと思っている。そして、恋愛感情を抱く相手は、男性の経験しかない。私を「女」だと思って接してくる家族や友人に、ましてやそんな自分に対して疑問を感じたことなど本当に1ミリたりともなかった。

だからジェンダー論を学んで思った、「私ってもしかして、環境によって『女』になっていったことに、まったく気づいていなかったのかな」と。私の「女」は作られたものなのか、私の意志ではないのか、そんな気すらした。

というのも幼少期は、プリンセス大好きで好きな色はピンク、洋服もフリフリのかっわいいやつばかり選んで、お人形遊びやおままごとも大好きだった。成長するにあたって嗜好は変わり、徐々に「カッコいい」とかそういうテイストも好きになっていったが…いわゆる、「女らしさの習得」として出てくる典型的なコースを、私はフル体験しているような人間だった。私の親が押しつけてきた記憶は一切ないが、それでも自分が「女」であることは100%自分の意志で決めたことであるという自信がなくなった。

そして、一度ジェンダー論を学び始めると、世の中にいかに「女らしさ・男らしさ」の概念が散らばっているかが、本当に鮮明に見える。強要された瞬間に「あ、今のはステレオタイプに該当する」と分かってしまう。良くも悪くも敏感になった。

あれもだ...これもそうだ...でも私は絶対に強要された「女らしさ・男らしさ」を鵜呑みにはしない。私は私なんだ。と謎の反骨精神が芽生えた。


■ダンスサークルで「Girls」というジャンルを踊る

大学時代、私はダンスサークルに入って「Girls」というジャンルに所属していた。(いわゆるGirls HipHop)

何故そのジャンルを選んだかというと、そのダンスの雰囲気が好きだから。それはただの直感であり、昔から安室ちゃんに憧れていた私は、Girls HipHopやJazz HipHopのような踊りや音楽に一番魅力を感じていた。今では記事のヘッダー画像のようにヒールで踊ったりもする。

このジャンルの説明をすると、もう見ての通り、女性らしいテイストを加えたHipHopということで、女っぽいシルエットをつくったり、セクシーさのあるダンスで、楽曲も女性アーティストを使うことが多いもの。ただ踊る人が女性でなければならない決まりはもちろんない。男性がGirls HipHopを踊ってもいいし、実際にそういうダンサーさんはいる。女性が踊るHipHopがGirls HipHopなのではなく、ダンスの内容がGirls HipHopなのだ。

だからこのジャンルは「女らしさ」の表現であり、それが醍醐味。

大学でジェンダーの授業を受けたあとにGirlsという「女らしさ」と向き合うと、「これは良いのだろうか?もしかしてこれも男性に消費されるための『女らしさ』なのだろうか」などなど、葛藤をすることもあった。


■「女らしさ」は表現であり、選択だった

でも、同じジャンルを踊るダンサーの中に、男性がいたからこそ気づいたことがあった。

この人は、髭も生やしていて短髪で、見た目は「男」を選んでいて、自分のことを「男」として認識している。でもダンスする上では「女らしさ」を追求しようとしているんだ。これは全部、ひとつの選択にすぎないんだ、と。

そして次に思ったこと。

生物学的に「男」の人が、”女の子っぽいもの”が昔から好きで、「女」になりたいと思って悩んでいたとき、その「女らしさ」を求める意志は尊重されるはずで、その人が思い描く「女」を否定することは絶対にあり得ない。

じゃあ、私が「女らしさ」を追求したいと思うことは不健全なことなんだろうか。私がダンスで自分なりの「女らしさ」を表現したいという気持ちと、このような人たちの想いのどこに決定的な違いがあるんだろう。

女性が「女らしさ」を積極的に受け入れたときに「それは植え付けられているんだ、強要されたものなんだ、目を覚ませ」と無条件に啓蒙されるのは、それもまた別の意味でおかしいんじゃないか?逆に押しつけになっているんじゃないか。一気にそんな気がしてきた。

私が「女らしさ」を選択することに、十分すぎる根拠はいらなくて、「好きだから」という理由だけで足りていた。だから幼少期の自分が、ピンクやプリンセスを好きな理由も「好きだから」という直感以外に何もいらなかったわけで、また「男らしさ」を選択したからといって、ピンクやプリンセスを好きになることと両立できないというわけでもない。


■「女らしさ」と「男らしさ」という色

ジェンダー論が言っていることは分かる。「女なんだから、おしとやかに」「男なんだから強くなれ」とか「女なら家事ができないと」「男なら稼げ」とか、そういう押しつけをしてはいけないことは同意する。

でも「女らしさ」や「男らしさ」という言葉・概念が持つ意味って本当にそれだけなんだっけ?そんなことはない気がする。この言葉じゃないと指せないイメージが確かにある。じゃないと今まで自分がダンスから感じ取ってきた印象を説明しきれない。

ダンスでも、ファッションでも、ヘアメイクでも、その人から「女らしさ」や「男らしさ」を感じることはある。どのくらいの「女らしさ」と、どのくらいの「男らしさ」をミックスさせるかだって自由で、どっちもゼロでもいい。「可愛い」から「女」で「カッコいい」から「男」だとか、赤だから「女」で青だから「男」とか、そういう話ではなく、「女らしい」「男らしい」というイメージ・表現が自立して存在すると思う。

性別はグラデーションなんだと言われるが、本当に色のように捉えるようになった。

たとえば、黒と白があって、それぞれから受ける印象は明らかに違う。黒と白が同じとはとても言い切れない。でも「”強さ”を表現したい」と思ったときに、黒を選ぶ人もいれば、白を選ぶ人もいるはず。濃淡も人それぞれかもしれない。(他の色もあるし)

自分が表現したいイメージ、なりたいイメージに対して、こっちだと思った方、好きだと思った方を選べば良くて、そのひとつとして「女らしさ・男らしさ」の選択は同様にできると思う。(選択しないという選択も含めて。)そして、他人の選択を否定しないないことも大前提で。

私がずっと抱えてきたモヤモヤは、たぶん、ジェンダー論から教えられた、性別はグラデーションであるべきと言う考え方と、「女らしさ・男らしさ」はつくられたものであるという考え方の、両立する落としどころが見当たらなかったところにあったのだと思う。

■おわりに

たまに「女らしさ・男らしさ」というワードが少し出ただけでも指摘されたり、そもそもこの言葉があってはならないという勢いで語られることもある。

でも私はジェンダー論を学んでいても、「女らしさ・男らしさ」は存在してもいいと思った。ダンスで「女らしさ」という表現と向き合う人たちを間近で見てきて、それは押しつけではなく、選択できるものとして、自己表現のひとつという意味で成立すると感じたから。

だから「女らしさ・男らしさ」をフラットにしようみたいな考え方に対して私は、今まで黒or白しかなかったのを透明にしようとは思わなくて、中間にグレーもあるし、他の色もあるし、濃淡や鮮やかさは様々だよね、という捉え方をしている。(比喩が多くてすみません)

もちろん違う考えの人はいるだろうし、もしかしたら、この考え方は知らないうちに誰かを無視していて、傷つけているかもしれない。(そんな方がいたら、本当にごめんなさい。)だからこれだけ考え抜いても、私の意見が正しいとは思わない。

これからも世の中に目を向けて、捉え方をアップデートしていきたいと思う。

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