不眠の夜に思うことなど①

妻や子供2人の寝息を愛おしく感じるのは普通の夫の感覚なのだろう。

しかし、いまの私には、どうしようもない殺意を増幅させる。突然湧いてくる、首を捻じ切って殺してやりたいとか、包丁を腹に突き刺してやったら即死ではないだろうなとか、そういった負の強い衝動が襲ってくる。

いつか自分が妻を殺し、我が子を簡単にこの世から葬る未来があるのではないかと思ってしまう。

実家の両親のこと、実の兄のことでトラブルがあり、特に今年の5月ごろからひどく悩まされることになった。以前から同じようなことはあったが、あまりにも許し難いことの連続で疲弊してしまった。

子育てで疲れている妻に実家のトラブルを巻き込みたくなかったし、また、巻き込んだところで真剣に考えてくれる人ではなかった。というより、考えられない。妻はこれまで幸せに生きてきた。父親が怒っているところを一度を除いて、他に見たことがない、と言い切るだけの恵まれた環境で育ってきた。私の実家で何が起こっていて、それが何を引き起こすかなど、想像できないのだ。

私は不眠に陥った。

子供が寝る8時ごろにベッドに横になって、その日は運動もしたし、疲れているから寝れるだろうと思っても日付が変わり、朝日が登るまで眠れない。

寝れたとしてもちょっとした物音で覚醒する。一度覚醒すると、再び寝付くことができず、ただただ心を無にして横たわるよりない。

何も考えないで暗闇にじっとしていることはできない。不安や焦りが増すような鬱々とした思考が頭をいっぱいにする。ひとしきり考えて疲れると、今度は過去の数々の失敗が思い起こされ、感情が上下して呼吸が乱れる。いくつか深呼吸して息を整えると、脳が活性化するのか、ぐるぐると思考が始まる。

これが、大学以来の私の「正常」な回路だった。

私は一定量の酒を飲み、「正常」を破壊することで不眠の解消に成功した。寝る前の酒は、疲れも残るし、周りの信用を失う行為だった。しかし、寝られずにネガティブな考えで自分を壊してしまうよりは、ずっと健康的な方法だった。

育児の最中であっても、酒はやめられなくなった。

子供は夜泣きするし、朝早く起きる。それが分かっていても、酒がやめられなかった。相変わらず身体は重いし、「よく酒を飲むダメな人間」という印象を与え続けている。それでも、少しでも何も考えずに寝たかった。

ところが数日前、妻が目に涙を浮かべながら怒りを放った。

「あなたは朝早く起きる気がない。夜中の子供の世話は私がやるから別に良い。でも、全く朝起きてこないのはひどい。あんまりだ。だいたい、夜に起きているから明かりが見えて気になって寝にくい。別にどうしてほしいということではない。しかし怒りがおさまらない。」

この言葉を聞いて、私は眠れない夜を酒を飲んで過ごす習慣をやめ、子供と一緒にベッドの中に入ることにした。

途端、どす黒い思考が脳内を駆け巡ることになった。

私が先に寝ることはない。子供の寝息と、妻の寝息が交互に聞こえる。

腐っている。

あんまりだ。

なぜこんなにも苦しい時間を過ごさなければならないのか。

何もしないで寝床にいて、何になるというのか。

この状況を打開したい。

理解などされるはずもなかろう。

いっそ、殺してしまいたい。

・・・。


ーーーーー

実家のトラブルは日常茶飯事で、面倒を引き受けるのに疲れてしまったから、結婚を機に適当な理由をつけて地元を離れた。しかし、連絡がつかないように細工をするとか、妻には事情をきちんと理解してもらった上で結婚するとか、もっと徹底するべきだった。


4人家族だった。

両親は常に喧嘩している。喧嘩しない日はない。仲良くしている姿を見たことはほとんどなかった。

母が口を開くと、父は気に食わないとすぐに腹をたてて怒鳴り、家であれば手近なものを掴んで放ったり、机を強く叩いたりした。外出している時は沈黙を貫き、帰宅後に暴力を振るった。

例えばある日、家に客人を招いて酒の席になった。夜も更けて疲れた母は、場を乱さないようにと思ったのだろう、客人にも夫である父にも何も言わず寝床についた。

客がそろそろと帰る段になって母が先に寝ていることに気づいた父は逆上し、客が声の届く場所にいるというのに、「お客さんに挨拶もしないで消える馬鹿野郎がいるか、この馬鹿野郎!起きろ!立て!オラァ!」と寝室に横になっている母を怒鳴りつけた。

まだ小さかった私は、酒の入った両親が子供に無関心になることを知っていたので、別室でここぞとばかりにゲームを楽しんでいたのだが、父の突然の大声に慌てて親の寝室に飛び込むと、父が母の腕を強引に掴み、乱暴に引っ張り上げているところだった。

母の悲鳴が家中に響いた。驚いたことに、玄関にいた客は「では私はこの辺で」と笑いながら出ていった。どうにかせねばと兄に助けを求めると、「かかわらないほうがいい」と一言吐き捨ててゲームを続けた。その後、私はどのようにその夜を過ごしたのか全く覚えていない。

母も母で、どうしようもなく気持ちの悪い女で、人の努力を台無しにする天才だった。

そもそも、理解が難しい特性のある人だった。私が小さい頃には、約束をすぐに破る変な人だと思う程度だったが、実際には、あるはずもない約束をでっち上げて周りを混乱させたり、逆に文面におこしてしっかりと確認した大事なものでさえ都合が悪くなると「忘れた」「覚えていない」「聞いていない」と弁解するのだった。いや、正確には弁解ではなく、専門家に言わせれば記憶の書き換えが起こる特殊な病のようで、本人も誠意で「忘れた」と伝えているのだそうだった。

例えば、父が生活習慣病を指摘され、歩くことを強く勧められていたことがあった。当時、私は小学4年生だった。

家には自家用車がなくて、普段は頻繁にタクシーを使っていた。そこで父は「散歩の帰りに、タクシーを使おう、とお父さんが言ったとしよう。そのとき、使わないで歩くように言ってくれないか。もし、タクシーを使わないで歩いて帰ったら、その時は500円をあげよう」と提案した。私は快諾した。母にその旨を伝えると、「毎回500円となると出すほうも大金だけれど、健康のためだし、いい話だね。頑張って貯めたら?」と応援された。

私は散歩のたびに「歩こう」と父に勧めるようにした。歩けば、ビールが美味いだろうとか、万歩計の歩数も稼げるとか、いい仕事ができるようになるんじゃないかとか、使えそうな文句はなんでも口に出してタクシーを使わせなかった。もちろん、車を使わないのだから、長距離になると自分も相当の距離を歩かなければならない。大人になったいま、一日2万歩の目標を掲げていた父の歩幅に合わせ、小学4年生が半ばマラソンのように小走りでついてゆく姿を想像すると、よくもあれだけ散歩に付き合ったものだ。家に着くと、500円が手渡された。父は金のことで裏切りはしなかった。

父がメタボリックシンドロームと診断されてから2年経ち、私が小学6年生になった6月ごろだった。貯めに貯めた500円玉を近くの銀行に持っていき、枚数をかぞえてもらったあとでお札に変えると、自分の財布の中に10万円が収まった。

父や兄に報告すると、「よく貯めた」と褒めてもらった。皿を洗いながら聞いていた母は「小学生には大金だから、銀行口座に入れておきましょう。高校を卒業したら渡すわ」と、先ほど札束になったばかりの「努力の結晶」を私から奪っていった。

高校を卒業し、浪人を経て大学に入学が決まったとき、母に口座へ入金したはずの10万の行方を尋ねると、「覚えていない」と返ってきた。父も兄も覚えていた。母だけが覚えていなかった。結局、10万円は手渡されることなく、どこか私の知らない場所へと消えていった。

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続く


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