見出し画像

読了「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」

久しぶりに本を買って読んだ。正直、自分は読書家ではないが、本を読むことの大切さはわかる。図書館で借りるとなかなか2週間で読み切らないことが多い…。買えば「読まなあかん」という気になるから、なんとか読める。面倒な性格だな。若いうちにもっと本を読んどきゃよかったと思うが、後悔先に立たず。

さて、今回はブレイディみかこの「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」。イギリスの最近の情勢を描きながら、人種差別やジェンダー、貧困格差など世界の縮図のような世界を、中学生の息子とパンクな母ちゃんが共に考え、悩みながら乗り越えていくという「親子の成長物語」だ。

人権の話を語ると、なんだか説教くさくなってしまうのが教師の性。しかしこの本は、「母ちゃん」「こども」の視点から語られているのがおもしろい。それに、「一緒に悩む」というスタンスがいいと思った。

例えば、多様性について「めんどくさい」「ないほうが楽」と母ちゃんは認めてしまう。こんなこと言える先生って、なかなかいない。「楽じゃないのにどうしていいの?」と息子の問いかけると、「楽ばっかりしてると、無知になるから」と母は答える。

同和差別もジェンダー差別も、あらゆる差別は「無知」から広まる。知らなければ、罪悪感も自分が悪いという気持ちも生まれない。アイヌや沖縄など、どこか日本は「多様性」から目を背けてきたように思う。日本が一つの国と考えることで、他を排除することで思考停止したほうが楽になるからだ。そしてその傾向は、アメリカの大統領選を見る限り、世界に広まっているように思う。おそろしいことだ。

また「シンパシー」と「エンパシー」の違いも心に残った。他人の心に自然と共感する「シンパシー」に対して、「エンパシー」を「自分で他人のくつを履いてみること」と作中で息子は答えていた。違った立場の人が何を考えているのかを想像する力を「エンパシー」といい、それは「能力」だととらえている。さまざな人種や価値観を持った社会では、それを受け入れる「能力」が必要と考えていることは、まだ日本人は理解していない人が多いなと思った。

「能力」とは「技術」である。野球でヒットを打つためには、バットの握り方などの技術を知ることが必要であるのと同じである。日本では、心情を育むことを「シンパシー」に頼っている教育が多いような気がするが、もっと考え方を教えてもいいのではないかと感じた。

では、どんなことをすれば「エンパシー」を獲得できるか。

提案だが、ロールプレイングで、具体的な場面を想定して、何と答えるかを考える授業展開はどうだろう。例えば、ジェンダーについてLGBTQ+についての知識を教えてから、友だち同士での会話の場面を想定して演じる。なんという言葉や行動をすればいいか、ポイントとなる「技術」を最後におさえる。今なら「コロナ差別」などもいいかもしれない。

できれば、この本の話で授業ができたらいいなあ…。

そう思える良書でした。まだの人は、ぜひ読んでみてください。読んだ人は、感想をぜひ交流したいです。

#ぼくはイエローでホワイトで 、ちょっとブルー

#差別

#読書

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?