見出し画像

短編小説「ダークサイドホテル」

 横浜にある心霊ホテルを取材してほしいと頼まれたのは、先月のことだった。

 その日、私と松倉さんは銀座のカフェにいた。
 秋も深まる十月の終わり、窓の外では街路樹が立ち並び、辺り一帯に紅葉が見渡せる。

 松倉さんはオカルト雑誌の編集者で、私はオカルトを専門に執筆するフリーのライターだ。
 私が月刊オカルト誌『妖怪談』に寄稿するようになってから五年、これまで松倉さんとは二人三脚で怪談や心霊現象、都市伝説に関する記事を作成してきた。

 松倉さんはウィンナーコーヒーを一口啜った。「望月さん、今回取材して頂きたいのは横浜にあるホテルなんです」
「いわくつきなんですか?」
「ええ、"出る"と噂なんですよ。ホテルの一室で自殺した女の霊が」
「なるほど」私はブレンドコーヒーを啜った。
「しかしですね、そこのホテル、ただ霊が出るというだけじゃないんです」
「他にも何か?」
「女の霊が現れるのは十三階のある一室なんですけどね、その女の姿を見てしまった者は、必ず精神に異常をきたしてしまうと言うんですよ」
 松倉さんは得意げな笑みを浮かべた。こういった話をする時の彼は、必ずこういった表情になる。

「なんだかシャイニングみたいな話ですね」
「そうなんです。映画みたいなことが現実に起きてしまう。出会えば最後、必ず狂ってしまうというところがポイントなんです。どうです? 興味を惹きませんか?」
「ちょっと待ってください」私は言った。「仮に私がその部屋に泊まって、その女の霊に会ってしまえば、私は精神的に狂ってしまうのでしょう? そうすると、取材どころではなくなるのでは?」
「まあ、あくまでも噂ですから。僕だって、本当にそんなことが起きると思っているわけじゃありません。
 望月さんには実際にその部屋に泊まって頂いて、それっぽい話を面白おかしく書いて頂ければそれでいいんです。もちろん、本当に恐怖体験に遭うことに越したことはないですがね」
「要は、いつもの作り話ということですね」
「平たく言えばそういうことになります」松倉さんは頷いた。「移動代、宿泊代、食事代等の経費は全てこちらで持ちますんで。引き受けてくれますか?」

 数秒間の沈黙の後、「いいですよ」と私は答えた。

🏨

 あれから十日後、午後四時半過ぎ、私はビニール傘を片手に取材先であるホテルの前に立っていた。

 横浜にあるホテルというのはその多くがみなとみらいや中華街、山下公園近辺に点在しているものだが、このホテルは海から二キロ以上離れた場所に位置している。
 立地としては、少し風変わりかもしれない。

 ホテルは十五階建てで、白いモダンな外観が特徴的だ。
 川沿いに建っていて、周囲はマンションやビルが軒を連ねている。大通りに面しているわけではないため、車や人の通りは少ない。

 十一月の雨は冷たく、体を芯から凍えさせるものがあった。アスファルトに激しく打ちつけ、至る所に水溜りができている。
 私は雨から逃れるように、足早にホテルのエントランスに入った。

 ロビーは想像以上に広く、想像以上に高級感があった。創業四十年を超えているらしいが、古さを全く感じさせず、手入れが行き届いている。さすがは三つ星ホテルだ。
 奥の方にはラウンジがあり、そこで雑誌を読んだり談笑をしたりする人々の姿が見受けられた。

 一見、何の変哲もなさそうなこのホテルに幽霊が出るという噂があるのは、こうして実際に訪れてみても未だに信じ難いものがあった。
 十三階に位置する問題の部屋は、既にインターネットで予約を済ませてある。
 私はフロントで宿泊代を支払い、チェックインをした。

 十三階に到着したエレベーターを降り、これから一泊する予定の部屋まで歩いた。
 扉に『1313』と刻印された部屋の前で立ち止まり、カードキーをかざして中に入った。

 客室はシンプルな造りで、シングルベッドにユニットバス、液晶テレビ、青い壁には抽象画が掛かっていた。
 この部屋で女が自殺を図り、そして霊となり出現するようになったらしい。
 実際、インターネットの掲示板にはそれに関する書き込みが散見された。まあ、真偽のほどは定かではないが。

 私は部屋の電気を点け、窓の方まで歩いてカーテンを開けた。
 外は薄暗く、激しい雨が振り続けている。真下に伸びる川には無数の波紋が発生し、重なり合っていた。点が円になり、円が点になっていく。その繰り返しだ。
 傘を持った人々が通りを歩き、車は水飛沫を上げながら走っていく。
 川を渡った先には駅があり、雨の音に混じって電車が走行する音が聞こえていた。
 雨に降られる街の輪郭はどこか不鮮明で、ピントの合っていないぼやけた写真のようでもあった。

 私はスマートフォンで部屋の写真を何枚か撮った。確認してみると、どの写真も特に異常はなかった。
 ビデオも撮影してみたが、やはり異常は見られなかった。
 私はバックからビデオカメラを取り出し、それを机の上にベッドの方を向くように設置し、録画を開始した。

 時刻が午後七時二十五分になろうとする時、私は部屋を出てホテルの最上階にあるレストランに向かった。
 店内は賑わっており、客席はそのほとんどが埋まっていた。私は数少ない空いている席に座り、サーロインステーキを注文した。普段からインスタント食品が食生活の中心になっていた私にとって、それは信じられないくらい美味しかった。
 あくまでも仕事中なので、酒は飲まなかった。

 窓の外はすっかり暗くなり、そして相変わらず雨が降っていた。
 そのせいで、ホテルの最上階から見渡す夜景はどこか情緒的だった。

 部屋に戻った時、時刻は午後八時半を超えていた。
 私は机の上のビデオカメラの映像を早回しで簡易的に確認してみた。
 終始ベッドの方向を撮影した映像だが、だんだんと部屋の中が暗くなっていくだけで、不審な変化や存在は一つも見つけられなかった。
 私はカメラを同じ位置に戻して、録画を再開した。

 それから机に向かってパソコンを起動して、仕事に関するメールの確認と返信をした。
 それらの義務的な作業がひと段落つくと、浴室でシャワーを浴び、歯を磨いた。

 それから三時間が経過した頃、私は部屋の電気を消し、ベッドの上で横になった。

 ふと目が覚めた時、真っ暗な部屋の中、今自分がどこにいるのか一瞬理解が追いつかなかった。
 そうだ、俺は仕事の取材で横浜のホテルに泊まっているのだ、と私は現実感を捉えるのようにすぐに状況を飲み込んだ。

 カーテンで閉じられた窓の向こうからは、まだ雨の音が聞こえていた。
 現在時刻を確かめるためにスマートフォンに手を伸ばそうとしたその時、衝撃が走った。
 体が動かないのだ。体全体が硬直して、一切動かすことができない。ベッドの上で仰向けの状態が完全に固定されていた。これは、金縛りだ。
 声も出せなかった。喉の奥から小さな呻きのようなものが、僅かに絞り出せただけだった。

 その直後、私は"それに"気づいた。
 女だ。天井から髪の長い女が、宙吊りになってゆっくりと出てきている。
 私の真上、長い髪が少しずつこちらに接近しているのだ。

 私は必死に体を動かそうとしたが、やはりそれはピクリともしなかった。
 そしていくら発声しようと試みても、やはり声にならない声が出るばかりだった。
 部屋は闇に包まれているため、女の顔は視認できない。
 だが、女が私をじっと見つめながら近づいてきていることだけはわかった。
 無言で、ただ一直線にこちらに向かって、そして両腕を伸ばしながら降下してきている。

 女の髪が私の首元に覆い被さり、両腕が両肩に掴みかかった時、私の意識は遠のいていった。

 目覚めると、部屋の中は明るくなり、雨の音は止んでいた。
 スマートフォンの電源を入れると、午前九時を過ぎていた。

 私は昨夜、確かに例の女の幽霊と遭遇した。松倉さんやインターネットの書き込みによると、その女と出会った者は精神に異常をきたすらしい。
 しかし、今のところ私の思考に特に問題はないようだった。

 トイレに行って用を足した後、すぐに机の上のビデオカメラを確認した。
 赤外線モードをオンにしていたため、暗い部屋でも問題なく撮影できている。
 だが、どれだけ確認してみても、昨夜の女の姿はどこにも映ってはいなかった。
 ただ私がベッドの上で寝ている様子が録画されているだけだ。

 果たしてあれは夢だったのだろうか?
 だけどあの女に両肩を掴まれた感触が、今でもはっきりと残っていた。

 それからチェックアウトをするため、部屋を出てフロントに向かった。
 私の対応をしたのは、眼鏡をかけた若い女性だった。
 ルームサービスは利用しなかったので追加料金はなく、部屋のカードキーを返却するだけだった。
「たしまいざごうとがりあきだたいうよりご。すまりおてしちまおをしこおのたま」フロントの女性が笑顔で言った。
「何ですか?」と私は反射的に訊いた。彼女は何て言ったのだ? これまで耳にしたことのない、意味不明な言葉の羅列だった。
 彼女は少し困ったような顔を私に向けた。苦笑いして、少し首を傾ける。
 私はなんだかバツが悪くなり、会釈をしてその場を後にした。

 ラウンジにある窓辺のソファに腰掛け、松倉さんに電話をかけた。
 数秒間の呼び出し音の後、松倉さんが出た。『しもしも』
 しもしも? 私は眉根を寄せた。「あ、もしもし、望月ですけど。例の女の幽霊ですけどね……」
『んさきづちも、んせまみす。かんせまけだたいてっゃしっおどちいうも』松倉さんが言った。
「え? すみません、何ておっしゃいました?」
『んさきづちも? かすでぶうょじいだ? たしまいさなうど』
「松倉さん? 私の言葉がわかりますか? 何ておっしゃってるんですか?」
『んさきづちも? かすでんったさなかうどにうとんほ』
 これは、先程のフロントの女性と同じだ。理解不能な言葉の羅列を、松倉さんも発している。
 私は怖くなり、電話を切った。

 それからすぐに松倉さんから電話がかかってきたが、私はそれに出ることができなかった。
 窓の外は曇り空で、路上にはまばらに水溜りができていた。川沿いの通りには銀杏の木が立ち並んでおり、人や車が途切れ途切れに行き交っている。
 暫く私はそんな窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。

 やがて、ある一つの可能性が私の中に浮上した。
 あの部屋で女の幽霊と遭ったものの、もちろん自分の精神にはどこにも異常はないと私は思っていた。
 精神が狂ってしまうなんて、そんなことは起こり得るはずがないと思っていたし、実際に例の女の幽霊に遭ってからもそれは正しかったと思っていた。

 しかし、実際はそれは間違いではないのか?
 本当に私は、精神的におかしくなってしまったのではないか?
 フロントの女性や松倉さんが異常なのではなく、もしかすると私自身が正常ではなくなってしまったのではないだろうか?
 だから、彼らの言動を私は正しく聞き取ることができなかったのだ。

 その瞬間、私はハッとした。
 松倉さんは電話に出た直後、「しもしも」と言っていた。だが、彼は普段からそんな薄ら寒い言い回しをするような人間ではなかった。
 本当は、松倉さんは適切に「もしもし」と言っていたのではないか? 
 それを私が、逆にして聞き取ってしまったのだとすれば。
 最初からフロントの女性と松倉さんの言葉は、全て逆さまとなっていた。

 この推論が正しければ、私はあの幽霊によって逆さまの世界に連れてこられたのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?