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自作掌編小説『突然の雨が降り出して』

 会社帰りの午後7時、街に突然の雨が降り出した。

 天気予報では伝えられていなかった想定外の事象に、傘を持たずに通りを歩く人々は、決して少なくなかった。

 4月中旬の雨はまだ冷たく、濡れた身体には少し応えるものがある。

 私はいつも習慣的に、ビニールの折りたたみ傘を鞄の中に常備していた。
だから幸い、冷たい雨に見舞われるという事態は何とか避ける事ができた。

 透明なクラゲを想起させるビニール傘が、先月買ったばかりのスプリングコートを雨から身を呈して守ってくれていた。

 何の前触れも無く降り始めた雨は少し激しく、濡れた石畳みの歩道には、既に沢山の水溜りが発生している。

 街路樹が延々と続く通りを、人々が次々と行き交っている。
そんな逆らう事の不可能な人の波に呑まれるように、雨に打たれる歩道を私は歩いていた。

 広々とした車道の水溜りに、車のヘッドライトが映り込み、その直後にそれは水しぶきと共にかき消されていた。

 途切れる事の無い車の往来によって作用するそんな光景が、私の右手には断続的に見受けられていた。

 予期していなかった雨が降り出した事で、街全体がその歩調を少し早めているような、私の心にそんな錯覚が重く沈殿していた。

 無数の雨粒が張り付いては、伝って行くビニール越しに、私は無機質な色の空を見上げた。

 世界はペシミスティックな気分の雲に覆われ、それを象徴するように私の頭上には、次々と空の涙が零れ落ちて行く。

 私は突如、止む事を知らない雨と止まる事を忘れた人の波から逃げ出したくなった。
普遍的な状況に対して、普遍的な行動を取る事が普遍的な自分の性格が、私はふと嫌になってしまったのだ。

 先刻、会社で些細なミスを犯してしまったことも併せて、奇しくも私の気分は現在の天気と調和していた。

 きっと地下鉄はいつも以上に混雑し、衣服が濡れた状態の他人と、肩や背中を擦り合わせる事を余儀無くされるのだろう。

 今の私の心を簡潔に表現するとすれば、憂鬱、その一言に尽きる。

 不意に、ビニール傘の中で漏れた私の溜息は、当然の事ながら周囲の雨の音にかき消された。

 私はふと、傘を持ったまま、その場に立ち止まった。
私の横を通り過ぎる人々は、一瞬だけ訝るように私を見ては、構わず歩いて行く。

 私のすぐ左手には、『BOOKS WARHOL』と看板が掲げられた小さな書店があった。
茶色い煉瓦造りの外観に、様々な観葉植物が軒先に並んでいる。

 最近、仕事に追われ続けていた私は、どうやら今月にオープンしたばかりらしいその店の存在を、完全に見逃していた。

 そして私は、その小さな書店が内包する神秘的な引力に誘われるように、憂鬱な雨の中から静謐な店の中へと自然と歩き出し、ガラスの引き戸に手を伸ばしていた。

 こぢんまりとした店内は、落ち着いた空気感に包まれており、規則正しく配列されたランプが吊り下がる天井の下に、同じく規則正しく配置されたダークブラウンの書棚に様々な本が並んでいた。

 私は一瞬で、鬱屈とした雨の領域から、微かにクラシックが流れる安息の領域へと身を投じていた。

 店内を少し歩き回っていると、どうやら洋書が多く置かれている事に私は気付いた。

 その中から何気無く私は、とある画集を手に取った。
沢山の裸婦達が水浴を優雅に楽しんでいるその表紙に、私の心を惹きつけるような魔力がそこには内在されているような気がした。

 私はレジまで歩き、殆ど必然的にその画集を購入していた。
紙袋に包まれたそれを、私は鞄の中に仕舞った。

 雨粒の伝う窓ガラスの先には、先刻と変わらず、少し激しい雨が降り続けている。

 私はガラスの引き戸を引いて、雨の街へと躍り出た。

 軒先の傘立てから、自分のビニール傘を取り出し、私は街路樹の通りを歩き出した。









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