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短編小説「隣の家の庭」

 隣の家の庭に、日傘をさした青い着物姿の女性が佇んでいる。
 かれこれ、もう二時間ずっとだ。正直、かなり気味が悪い。

 私は自分と姉の部屋を仕切る花柄模様のカーテンをちらっと開け、その隙間から顔を覗かせた。「お姉ちゃん、やっぱりあの人ずっといるよ。ちょっとやばくない?」
 姉は私の方を見向きもせずに、机に頬杖をついてファッション誌を読みながら、「気にしないの」とだけぶっきらぼうに言った。
 私はすぐさま反論した。「なんで? 気になるじゃん。だって、このあっつい真昼間にさ、何もせずにずっと人んちの庭に立ち尽くしてんだよ? 絶対おかしいよ」
「いいから、あんたは気にせず夏休みの宿題に取りかかってりゃいいのよ」と姉は私のことを一瞥して、溜め息交じりに言う。「夏休み、今日入れてあと五日しかないんでしょ? ほら、無駄口叩かずに手動かす」

 姉の言う通り、今日が八月二十七日で、五日後には高校の二学期が始まってしまう。
 のだが、私の根っからの怠け者癖が手伝って、今現在、夏休みの宿題は全体の三割も片付いていない。つまり、絶対絶命の大ピンチ。
 窓の外で必死に鳴き続ける蝉の声も、心なしか少し弱っている気がする。いや、絶対に弱っている。

「大学はいいよねえ。二ヶ月もあるんでしょ、夏休み? 私さあ、絶対大学行くんだ」
 姉はカーテンの隙間から顔だけを出した私から視線を逸らして、「あーあ、女子大なんか行くんじゃなかったなあ」とまるで独り言のようにつぶやいた。
「え、なんで?」と私はいつものように反射的に尋ねる。
「出会いがないんだよね」姉はその細い眉を少しだけしかめた。「サークルもさ、女しかいないと、なんか同調圧力っていうか、周りに合わせないといけない空気感がすごくて、そういうのがどうも苦手で」
「ふうん。お姉ちゃんもお姉ちゃんで苦労してんだね」
「あんたねえ、私のことなんだと思ってんのよ」姉は苦笑いを浮かべた。「ま、悪いことは言わないから、あんたも彼氏が欲しいんなら、共学を選ぶことだね」
「別に、男とか興味ないもん。どうでもいい」
「またまた、強がっちゃって」
「本当だもん。本当にいらないもん」実際、本当に本当なのだ。これまで誰にも打ち明けたことはないのだが、私の恋愛対象から男は自動的に除外されている。

「あっそ。とにかく、大学に行きたいならベンキョーしなさい」姉はそう言うと、私のおでこを軽く小突いた。
 強引に自分の部屋に押し戻された私は、仕方なく机に向き直り、英語のテキストをじっと睨んだ。睨んだところで問題が解けるわけでもないのだが、それでも睨まずにはいられない。

 三十分が経過しても、テキストは一ページも進んではいなかった。
 勉強中にスマホは絶対にいじらないと決心しても、気づけばその五分後にはいじってしまっている。自分の徹底的なやる気のなさに、我ながら感心してしまうくらいだ。

 窓の外をひょいと見ると、やっぱり隣の家の庭に、着物姿の女性はいる。人工芝の上をただ何をすることもなく突っ立っている。
 日傘をさしているから、この位置と角度からでは見た目はわからない。顔は完全に隠れている。

「ねえ、お姉ちゃん。やっぱり気になるよ、なんなの、あの人?」私はカーテンの向こう側にいる姉に向かって呼びかける。でも返事が返ってこない。「お姉ちゃん? ねえ聞いてる?」
「うるさいなあ」カーテンの向こうから、姉の面倒くさそうな声が聞こえた。「気にすんなって言ってるでしょ」
「だって、気になるもんは気になるよ。むしろお姉ちゃんはさ、なんでそんなに気にせずにいられるわけ?」
 私がそう訊くと、カーテンがしゃっと開いて、冷めた顔の姉が私を見ていた。「聞きたい?」
「え? いや、うん。聞きたい」これから深刻な話でもすることを予感させるような姉の雰囲気に、私は少し気圧された。

「いいよ。教えたげる」そう言って口元に笑みを浮かべた姉の表情は、どこか意味深だ。「隣の家さ、三十代ぐらいの夫婦が住んでるでしょ? 子供はいなくて」
「うん」
「あんたは気づかなかったんだろうけど、買い物に出かけてた奥さんの方がさ、車で帰ってきたの。その時、庭にはあの着物の女がいるんだけど」
「それで?」
「それでだよ? 奥さん、なんの反応もなく普通に素通りして、そのまま鍵開けて家の中に入っちゃったわけ」
「え? どゆこと? 着物の人がいるんだよね?」
「そうだよ。それも、平然とその人の真横を通り過ぎてったのよ。あれ見て私確信したね、あれは生きてる人間じゃないって」
「えっ、え? えっと、つまり、オバケってこと?」私はあからさまに動揺を隠せなかった。「隣の奥さんには見えてないの?」
「そっ、私たちにしか見えてないってこと」
「ええ」私は眉根を寄せた。姉とは対照的な太眉だ。少し気にしてる。「こんな白昼にオバケェ? 非現実的だよ」
「あんたからそんな言葉が飛び出すとはね。ていうか、そんなに気になるなら確かめに行ってくれば? 話しかけてみなよ」
「やだよ絶対。怖いもん」
「じゃあ、潔く諦めて勉強しなさい」姉はビシッと私のことを指差した。「さっきから全然進んでないでしょ? 音でわかるんだからね」姉はそう言うと、カーテンを素早く閉じて、私と自分の部屋とを遮断した。

 姉の姿が見えなくなると、私はテキストに印刷されてある意味不明な英文を睨んだ。
 その睨む作業にも飽きると、ふっと息をついて、「オバケェ?」とつぶやいた。

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