短編小説「部活終わりの銭湯」
日が沈み、空は夕焼けから薄明に変わりつつあった。
季節が初夏になると、この時間帯でも肌寒さを感じない。
帰り道、部活の練習を終えた僕らはよく近所の銭湯へ足を運んでいた。
高校の卓球部の練習はハードで、体に染み付いた汗を洗い流してくれる銭湯は、僕らにとってのオアシスだったのだ。
僕らの行きつけ、『藤見湯』は個人経営の昔ながらの銭湯で、隣には小さなコインランドリーが併設されている。
僕ら三人、僕と筒井と石持はいつものように番台のおばちゃんに料金を支払い、男湯の暖簾を潜った。
簡易な脱衣所で服を脱ぎ、浴場に通じるガラス戸を開けようとした時だった。ふと、筒井が立ち止まったのだ。
「どうした?」
僕が訊くと、「いや、なんでもない」と筒井は素気なく返した。
「なんだよ、村田先輩にスコンクで負けたこと、まだ気にしてんのか?」石持は訊いた。
「違うよ。本当になんでもないから」筒井は溜め息を吐くように言った。
「ふぅん、ならいいけど」
浴場には、僕ら以外にはまだ誰もいなかった。
シャワーで軽く体を洗った後、僕らは勢いよく湯船に浸かった。
僕ら三人分の体積が加算されたことで、浴槽からは結構な量のお湯が溢れ出た。
この決して広くはない空間ではあるが、高校生の僕ら三人が独占できることはなかなか気分が良かった。
お湯の温度はちょうど良く、部活で溜まった疲労がみるみるうちに抜け落ちていくようだった。
タイル張りの壁に描かれた雄大な富士山を眺めながら、僕らは高校生らしい取り留めのない話をしていた。
部活とか、進路とか、好きな女子とか。
まだ浸かってから五分も経過していない頃だった。
筒井が急に、「出る」と言い出したのだ。
「ちょっと早くないか?」石持が訊いた。
「のぼせたんだよ。待ってるから、気にせず浸かっててくれ」
筒井はそう言い残し、湯船から上がって、足早に浴場を出ていった。
「なんだあいつ」石持は呟いた。「なあ、筒井の奴、ちょっと変じゃないか?」
「やっぱりスコンクのこと、気にしてるのかもな」僕は言った。
筒井が出ていったのと入れ替わりで、客が続々と浴場に入ってきたので、僕らもそれを契機に湯船から出ることにした。
この時間帯を境に、銭湯は混み出すのだ。
♨️
風呂上がりに飲むコーヒー牛乳は格別だ。この流れはもはや伝統的と言えるだろう。
僕と筒井と石持は小ぢんまりとしたロビーのソファにそれぞれ座って、ある種のひとときに浸っていた。
しかし風呂から上がった後でも、筒井がなんだか落ち着かない様子なのは明白だった。
かと言って、僕も石持もそのことには敢えて触れなかった。
また「なんでもない」の一言で片付けられることが容易に想像できたからだ。
藤見湯を後にすると、僕らはいつもの住宅街をいつものルートで歩いた。
外はすっかり暗くなり、西の空に浮かぶ金星がやたらと輝いて見えた。
風呂上がりの体に当たる風は、心地良かった。
歩きながら僕らは、他愛もない会話を交わしていた。
それでもやはり、筒井の様子はどこかおかしかった。まるで銭湯に行ったことで、身体的な疲労が取れた代わりに精神的な疲労が溜まったような感じだ。
数分後、僕らは分かれ道で立ち止まった。
この道を僕と筒井が直進、石持が右折と決まっている。
石持と別れ、筒井と二人きりになった後、僕らは肩を並べて歩いていた。
だけど、僕らは殆ど無言だった。僕が話しかけても、筒井からの返事はどこか歯切れが悪い。
やはり、普段の饒舌な筒井らしくない。
僕はついに耐え切れず、思い切って訊いてみた。「藤見湯で、何かあったのか?」
「え」筒井は僕の顔を見返した。
「あそこに行くまでは普通だったのに、それ以降がなんだか変だ。原因はあの店にあるのか?」
筒井は返事をしなかった。
「なあ、話してくれよ。友達だろ?」
筒井はゆっくりと溜め息をついた。「話しても、俺のことを頭のおかしい奴だと思わないか?」
「思わない。誓うよ」
「絶対だな?」
今度は僕が溜め息をついた。「絶対だよ」
筒井は深呼吸した。「女がいたんだ」
「女?」
「浴場に、女がいたんだよ」
「そりゃ、いるだろ。女湯があるんだから」
「違うんだ。俺が言ってるのは、男湯にってこと」
「はあ?」
「やっぱり、見えてたのは俺だけだったんだな」
「ちょっと待ってくれ、どういうことだよ? 男湯に、女がいたって言うのか?」
「だから、そうだよ。脱衣所で服を脱いで、浴場に向かう時、ガラス戸の先に見えたんだ。浴場で髪の長い裸の女が、こっちを向いて立ってるのが」
「裸の女が……男湯に、ね」
「色気なんてさ、微塵もなかったよ。生気を全く感じられないんだ。一目見て、あれは生きてる人間じゃないってわかったね」筒井は言った。「実際、一瞬だけ目を逸らしてからまた浴場を見たら、そこにはもう誰もいなかったしな」
僕は数秒間の沈黙の後、訊いた。「見間違いじゃないのか? その、妄想とか」
筒井はかぶりを振った。「それだけなら、ただの見間違いだって、自己暗示できたと思う」
「まだ、続きがあるのか?」
筒井は頷いた。「湯船に浸かってた時だ。あの時、浴場には俺たち三人以外誰もいなかったはずなのに、どこからか視線を感じるんだ。視線の先を辿るとさ、湯船の中だったんだよ」
「湯船の中?」
「あの女が、髪の長い裸の女が、浴槽の底に仰向けになって、俺を見つめてるんだ。瞳孔が大きく開いて、口は歪んでた。瞬き一つしないし、息苦しそうな様子もなかった。ただただ、水面下で俺のことをじっと見つめてた。恨めしそうに」
僕は返事ができなかった。
「だから、ここにいちゃまずいって思って、浴場から出ることにした。お前と石持を残したのは、悪いと思ってる。でも、言っても信用してもらえなかっただろうし、俺自身、余裕がなかったんだ」
少ししてから、僕は訊いた。「そういうの、見るのか? 霊とかって」
「たまに、な」
僕は筒井が嘘をついているようには見えなかった。
そもそも、彼はそんな悪質な冗談を口にするような男ではない。
夜風は、少しだけ冷たく感じた。これは単に湯冷めをしたのか、それとも筒井の話に背筋が凍りついたのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、僕は暫く銭湯には通えないと思う。
少なくともあの藤見湯には、二度と足を運ぶことはなさそうだ。
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