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自作短編小説『ため息の彼方』 第1話「部屋」

 気が付くと、何度もため息をついている。締め切りまで余裕なんてないのに、なかなか納得のいく文章が書けない。キーボードに置いた私の手の動作は、完全に停止していた。一方で、パソコンの液晶画面に表示されたカーソルは、一定の間隔を保って恒常的に点滅している。夜通しで必死に書いた未完成の文章は、既に何だか出来の悪いものに思えてきた。

 机の上は散らかっていた。数冊の女性ファッション誌、仕事用の参考資料の山々、殆ど底のついた紅茶のカップなどがパソコンを取り囲んでいる状態だ。パソコンの液晶画面に映る写真の女性モデルは、水色のワンピースに白いサンダルを着飾り、こちらに笑いかけている。私はとてもじゃないが、笑う気にはなれなかった。締め切りは今日の午後7時までだ。液晶画面の片隅に、現在時刻である午前10時28分が表示されていた。欲張って複数のクライアントと契約し、沢山の仕事を抱え込んだことが、私をこの状況に追い込んでいた。それでも私はこうして自宅の部屋で、何とか完成度の高い文章を書こうと努めていた。私はマンションの3階に部屋を借りて、自宅で仕事をすることが通例だった。

 私は以前は女性ファッション誌を専門に、とある出版社で働いていた。しかし今年の春から独立して、現在はフリーランスのライターとして毎日を過ごしている。20代後半を迎えている今、私は自分の実力をもっとあらゆる方向性に活用したいと思い、退社を決意した。そして独立してからフリーランスの期間がまだ2ヶ月と経験の浅い私は、このように記事の作成に苦戦することが多かった。しかし私は本来はファッション誌を専門に記事を書いていた立場だった。それにも関わらず今回のようにファッションについての仕事に苦労するなんてことは、フリーランスになってから初めての経験だった。まだまだ自分が未熟であることを私は痛感していた。

 時折、梅雨入り前のそよ風が網戸を通して私の部屋に入ってきた。その風はカーテンを揺らし、ファッション誌のページをめくり、私の髪をなびかせた。心地の良い風は、仕事中における私の唯一の気休めだ。文章を書く上で、出来る限り静寂な環境が好ましいことを私は日々実感していた。そして私の部屋の中は、その平穏の象徴のような静寂に包まれていた。

 カーテンの向こうの空は、随所に水色を覗かせた曇り空だった。風に揺られたカーテンの動きが私の眠気を刺激した。昨夜から一睡もせずに仕事に打ち込んでいるため、私は今にも居眠りをしてしまいそうだった。私は必死に意識を集中するように努めた。しかし次の文章がどうにも思い浮かばない。私は再びため息をついた。

 時刻は午前10時半を回っていた。穏やかなそよ風が、外の木々を揺らしていた。その風は先程から、3階の私の部屋にも度々訪れている。液晶画面のカーソルの一定の点滅、木々を揺らす断続的なそよ風、そして私の部屋への風の訪問。あらゆる事象が私の眠気を刺激した。それでも私は意識を振り絞って、目の前の文章のことを考えようとするが、やはり続きの言葉が浮かんでこない。

 私は仕事中に疲れた時にはよくベランダに出て、自宅のマンション前を流れる川を眺めることがあった。そうして疲れ切った心を回復させるのだが、今はそんな余裕すらなかった。既に私の意識には衝動的な睡眠欲が流れ込んできていた。それはかなり勢いのある奔流だった。私はその趨勢に半ば押し流されつつあった。

 このまま少し眠ってしまおうか、私はその流れを受け入れるように、ふとそう思った。しかし締め切りの時間は刻一刻と迫ってきている。あなたは今そんなことをしている余裕はないでしょう、と私は自分に言い聞かせた。それでも睡眠をいざなうその奔流はさらに勢いを増していた。もはやそれは私の意識が抗うことのできない類いのものだった。

 『悪いことは言わないから、独立なんてせずに出版社に身を置いた方が賢明よ』微睡みの中で、私はふとその言葉を思い出した。それは、退職の意思を伝えた際に上司から言われた言葉だった。きっと私は自分の実力の至らなさを無意識のうちに痛感しているのだろう。

 私の眠気は限界に来ていた。殆ど眠りに落ちる状態に陥っていた。すると突然、部屋の静寂を切り裂くように電話が鳴った。背後の固定電話からだった。それは私の睡眠を阻止しようとでも言わんばかりに、繰り返し鳴り響いている。仕事の電話かもしれなかった。私は何とか顔を上げた。朧気な意識の中で、液晶画面が午前10時32分を指しているのが確認できた。

 私は受話器を取るために立ち上がろうとした。しかしそれは不可能だった。私の衝動的な眠気はかつて無いほど勢いを増し、どんな事象もそれを食い止めることはできなかった。抵抗不能な睡眠欲が何重の層にもなって交錯した。そんな中でも電話はまだ鳴り続けていた。しかし私は電話を気にする余力さえ残ってはいなかった。そして私は眠りの世界へと押し流された。


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