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誰かの言ったことなんて

 誰かの言ったことなんて、たかが知れてる。

 これは、イギリスのバンド、Oasisの『Some Might Say』という楽曲の中のある一節を、僕が自分なりに意訳した言葉だ。

 『Some Might Say』では、「You know what some might say」という歌詞を、ボーカルのリアム・ギャラガーがラストで何度も繰り返し歌っている。

 僕は個人的に、この曲がOasisの中で最も好きな曲の一つだ。

 何故ならこの曲には、「誰かの言ったことなんてどうだって良いんだ、君の進みたい道を進め」という、Oasisの一貫した精神性が如実に表れている気がするから。

 誰かの言ったことなんて、たかが知れてる、とは言ったが、全面的に自分の主張を押し通して他人の意見には耳を塞げ、と決して言いたい訳じゃない。

 自分にとってプラスの感情になる他人の言葉には、耳を傾けるだけの価値がそれなりにあるのだろう。

 やはり人間というのは、自分の方針や考え方を他人に肯定されれば、モチベーションが上がり、何かしらの成果に繋がる確率が高まる事だってあるからだ。

 一方で、自分をマイナスの感情に陥らせる他人の言葉はどうだろうか。

 そんなの、聞いてやる価値など微塵も無い。
相手を傷つけるような言葉には、汲み取ってやる意義なんて砂粒程もありはしない。

 ましてや、インターネットやSNSの誹謗中傷なんて、犬のクソ以下だ。肥やしにさえならない。

 だから、そんな顔も名前も知らない人間が発信した言葉の暴力にひれ伏す必要なんて、きっと、世界中を隅々まで探したってどこにも見当たらないだろう。
下水道にだって流れてない筈だ。

 気にしなければ良い。鼻で笑ってやれば良いんだ。

 彼らは暇なんだ。
自分の人生が充実していないという現状のせいで、どうしても他人の事が気になってしまう。
その結果、自分と他者を比較してストレスを感じてしまい、それを発散するためについ他者を攻撃してしまう、というのが大方のプロセスだろう。

 きっと、人生の成功者というのは、見ず知らずの人間を気にするための本質的価値も時間的余裕も持ち合わせていない筈だ。
自分の事で手一杯だからだ。

 だから、特にインターネットやSNSに於いて、他人を攻撃したり、その人格を否定したりするような発言をする者は、おそらく社会的に下の部類に属する人間だと推定しても良いのかもしれない。

 要するに、Oasisは僕の行動指針や方針を確固たる強度にしてくれたのだ。
僕にとってOasisの楽曲には、きっとどんな哲学書よりも心に響くメッセージが沢山ある。

 そして、Oasisはこう僕に教えてくれた。

 誰かの意見に左右され過ぎて、自分を見失うような事にはなるな。
自分を信じて、君の進みたい道を進めばいい。











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