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計画的トマトスープ④/④

 穂積が急遽、立案した作戦に従って、僕たちは行動していた。
 計三ヶ所の出入り口にそれぞれが急行し、そこで待ち伏せをして、窃盗犯の行手を阻むという内容だ。

 確かに窃盗犯がまだ館内にいることを前提に考えれば、この作戦は有効かもしれない。   
 しかし、仮に窃盗犯の進路を塞ぐことに成功したところで、僕たちが怪我をしないという保証はどこにもない。
 相手は名画を盗むほどの、大胆な行動力を持った人間だ。何をしてくるかはわからない。つまりこの作戦を遂行するには、危険は避けては通れないのだ。

 加納は正面玄関、僕は東側、穂積は北側の関係者用の出入り口にそれぞれ向かっていた。
『穂積だけど』左手に持ったスマートフォンから、穂積の声がした。グループ通話を利用しているのだ。『北側の出入り口に到着したわ。今のところ怪しそうな人は見当たらない。て言うか、誰もいない。二人はどう?』
『加納です。正面玄関も、今のところ大きな荷物を持った人は通ってないよ』
『外岡君は?』穂積が訊いた。
「待ってくれ。今急いでる」僕は息を切らせながら言った。
『まだ着いてないの? 早くしなさいよ』即座に、穂積の非難めいた声が応じる。『その間に窃盗犯が逃げたらどうしてくれんのよ』
「ああ、わかってる」そう答えた僕の声には、少しばかり苛つきを含んでいた。
 そもそもあの展示室は西側に位置しているため、目的地までの距離は僕が最も遠いのだ。明らかに穂積は、その事実を考慮していない。

 ひと気のない通路の角を右に曲がり、その先に横幅一メートルほどの自動ドアの姿が見えた時、僕は反射的に立ち止まった。
 ドアの数メートル手前、青い作業服を着た清掃業者らしき二人の男が、大きなカゴ付きの台車を押していた。台車には布が覆い被さっており、何が積載されているのかはわからない。
 だがあのサイズの台車なら、絵画の運搬は造作もないはずだ。

 僕はスマートフォンを顔に近づけた。「穂積、加納。窃盗犯を見つけた。東側の出入り口前だ。すぐに向かってくれ」
「わかった」
「今行く」
 穂積と加納の応答が同時に聞こえたのを確認すると、僕はスマートフォンをズボンのポケットに押し込んだ。それから二人の男の背中に向かって、声をかけた。「すみません、ちょっといいですか?」
 二人は立ち止まり、素早くこちらを振り向いた。
 両者ともキャップを被っており、少し距離があるため断定はできないが、一人は二十代後半から三十代前半の、細身で眼鏡をかけた面長の男。もう一人も同じほどの年齢で、彫りが深い髭面の男だった。
 どちらも身長は百七十センチ後半ほどで、僕より数センチ高い。

「何?」髭面の男が露骨に苦い顔をした。
「その台車の中、ちょっと調べさせてもらえませんか?」
「なんで?」髭面の男の態度は、清々しいほどに高圧的だ。
「財布が紛れ込んでるかもしれないんです」僕は平常心を保ちながら、平坦な声で言った。「財布を落としたはずの場所を何度探しても見つからないんですけど、考えてみたら、その場所にはその台車があったと思うんです。ですから、何かの弾みでその中に入っちゃったかもしれなくて」
「ああ、大丈夫」面長の男がやけに穏やかな顔つきで言った。「この中に入ってるのは掃除用具だけだよ。それ以外は何も入ってない。だから別の場所にあるんじゃない?」
「いえ、自分の目で確かめてみないことには気が済まないんです」僕は二、三歩前進した。「お願いです。調べさせてください」

 そう言うと、ちっ、と微かに舌打ちが聞こえた。
「どうする、こいつ?」髭面の男が眉間に皺を寄せ、口元を曲げた。
「そうだな」面長の男は冷徹な表情で、小さく頷いた。「少し痛い目を見てもらおうか」
「俺がやろう」
 そう言うと、髭面の男は不敵な笑みを浮かべ、指の関節を鳴らしながらこちらに近づいてきた。
 生まれて初めて、まともに向けられた敵愾心。僕は今、危害を加えられようとしている。
 その事実を理解しておきながら、情けないことに僕の足はすくみ、その場から動くことができなかった。

 髭面の男がすぐ間近にまで接近した時、僕は観念するように目を瞑った。
 だが、背後から通路を走る荒っぽい足音が聞こえたことで、思わず目を開けた。
 視界には、にわかには信じられない光景が飛び込んできた。
 髭面の男が宙に浮かび上がったと思うと、次の瞬間には背中から勢いよく床に倒れ込んでいた。
 男を投げ飛ばしたのは、加納だった。加納が自分よりも一回り大きい大人の男に、背負い投げを決めたのだ。

「嘘だろ……」僕は完全に呆気に取られ、目を大きく見開いていた。
 加納はさも落ち着き払った様子で、「外岡君、怪我はない?」と訊いた。
「……あ、うん。全く」と少し遅れて答えた僕の声は、少しうわずっていた。
 髭面の男は仰向けの状態で、苦悶の表情を浮かべ、呻き声を漏らしている。
 硬い床に、背中をまともに打ちつけたのだ。受身を取る余裕なんてなく、衝撃を一身に浴びたのだろう。

 足音に気づき、顔を上げると、面長の男が大股でこちらに向かってきていた。その目には怒りが宿り、全身に敵意を漲らせている。
「外岡君、下がってて」
 加納に有無を言わせない語気で言われ、僕は大人しく指示に従った。
 冷静さを失ったように、凄い剣幕で掴みかかってきた面長の男の片腕を、逆に加納は両腕でぐっと掴み取り、そのまま背負いにかかる。そして男は空中をくるりと一回転した後、激しく床に叩きつけられた。
「決まった、沙彩の一本背負い!」いつの間にか、僕の隣に立っていた穂積が感嘆の声を上げた。
 技をかけられた面長の男は苦痛に悶えるように、小さく呻いた。彼も髭面の男と同様に、立ち上がることができないようだ。

 こうして二人の男は、いとも簡単に一人の女子高校生に制圧された。それも柔道着の姿ではなく、キャミソールワンピースにサンダルという格好で。
「どうなってるんだ、一体……?」僕は口を半開きにして、つぶやいた。
「あれ、知らなかった?」穂積が首を傾げる。「沙彩ね、中学の時、女子柔道部の主将だったの。黒帯初段」
「ちょっと、言わないでよ、すみれ。黒歴史なんだから」加納が焦ったように、顔の前で手を振る。
「どこがよ」穂積は腰に手を当て、苦笑いした。「今だって、沙彩のおかげで助かったんじゃない。むしろもっと誇るべきよ」
「ああ」僕は口元を少し緩め、同意した。「助かったよ、加納。ありがとう」
 加納は照れ笑いを浮かべ、「どういたしまして」と小さな声で言った。

 それから僕たちは、数メートル先の、ぽつりと放置された台車まで駆け出す。
 布を引き剥がすと、そこには予想通り、マグリットの『ゴルコンダ』が収まっていた。
「作戦成功ね」穂積が満足げな顔で言う。
「とにかく、通報しないと」と僕は言って、慌ててスマートフォンを取り出した。
 僕が110番に電話をかけたのと、通路の奥から数人の警備員がどたどたとやってきたのは、ほとんど同じタイミングだった。

 八月も後半に突入した頃、僕たち-僕と穂積と加納-は金沢警察署からの帰り、その近くにあるファミレスにいた。
 時刻は午後五時を回っているが、夏の日は長く、外はまだまだ明るい。

「凄くない?」穂積が目を輝かせて言う。「感謝状だよ? 感謝状。テレビと新聞にも取材されちゃってさ、マジで夢みたい」
「当然だろ」僕は頬杖をつきながら言った。「二度もマグリットの絵を救ったんだ。注目を浴びないはずがないし、感謝されて然るべきだね」
「二つ目は、ほぼ沙彩のお手柄だけどね」穂積が意地の悪い笑みを浮かべ、僕を指差す。「ね、沙彩」
「はあ」加納が大きな溜め息をつき、不満そうに下唇を突き出した。「せっかく柔道やってたこと隠してきたのに、これで全部台無しよ、もう」
 穂積は困ったように笑い、「何よ、そんなに落ち込むことじゃないじゃない」と言った。

 穂積が落ち込む加納のことを励ましている間、僕は席を立ち、ドリンクバーで二杯目のトニックウォーターを注いだ。
 席に戻ると、加納は幾分元気を取り戻しているように見えた。
「そういやさ」穂積がメロンソーダを一口飲み、口を開く。「トマトスープをぶつけようとしたあの二人って、結局どっちだったの? 本当に環境活動家? それともやっぱり窃盗団の仲間?」
「ああ、彼らも窃盗団だった」僕は口からグラスを離し、答えた。「叔父から聞いた。僕らの推論通り、あのトマトスープの二人が騒ぎを起こして注目を集めてる間、密かに絵画を盗むことがやつらの計画だったらしい。清掃業者を装ってね。つまり、〈持続可能な英雄〉なんていう環境活動団体なんて、存在しなかったってこと」
「やっぱり、そうだと思った」穂積は満足そうに口角を上げ、もう一度グラスに口をつける。「そうじゃなかったら、偶然トマトスープがかけられたタイミングを見計らって盗みを働くなんてまず不可能だもんね。かと言って、いつ作品が汚されるかなんて事前に把握できるはずないし。外岡君、ただ一人を除いてね」

 穂積が寄越してきた探るような視線を、僕は窓の外に目を向けることでさらりとかわした。
 もちろん二人には、なぜ僕がトマトスープ攻撃の時間を正確に予測できたのか、説明はしていない。どうせ奇異な目で見られることがわかり切っているからだ。
 そして今回初めてわかったことだが、どうやら僕の予知能力にはインターバルがあり、間断なく続けざまに発動することはできないらしい。
 だからトマトスープ攻撃は予測できても、その直後に起きる『ゴルコンダ』盗難は予測することができなかった。僕の予知能力は完全無欠ではなく、そういう制約があったのだ。
 僕は窓の向こうの、大通りを東西へ走行する車の流れをぼんやりと見下ろしながら、今回の出来事を内省していた。

「でも、ちょっと意外だったかも」
 加納の声がして、自然と僕の視線はテーブルの方に戻る。
 加納はアイスティーのグラスを両手で包みながら、「外岡君の性格上、感謝状なんて絶対辞退するだろうなって思ってたから。取材も、全然鬱陶しがる素振り見せなかったし」と微笑んで言った。
「確かに、確かに」穂積が大袈裟なほど、首を縦に振る。「それ、私もちょっと疑問に思ってた。ねえ、なんで?」
 僕はソファの背にもたれ、「来年、受験勉強をしたくないんだ」と言った。「それで推薦を狙ってるんだけど、世界的名画を救ったなんていう経験は、進学や就職なんかで有利に運ぶと思ってさ。計画のためなら、利用できるものは何でも利用する。全ては将来のことを考えての行動だよ」

 軽蔑。今の穂積と加納の表情を簡潔に言い表すのに、これ以上的確な言葉は他に存在しないだろう。

〈了〉

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