短編小説「有人教室」
通りを吹き抜ける冷たい風に、思わずマフラーに顔をうずめた。
冬休み明けの学校。低く垂れ込める重たい雲が、まるでぼくの現在の心境を正確に体現しているようでもあった。
朝の七時十分前、ポケットに両手を突っ込みながら、真冬の通学路をぼくは歩いている。
雪は降っていない。それでも、白い息を簡単に吐き出せるくらいには寒い。
歩行者信号が青に切り替わり、横断歩道を渡っていると、向かいの歩道に見覚えのある姿が目に入った。クラスメイトの男子、榎本だった。
向こうもぼくに気づいたようで、軽く手を挙げた。ぼくも彼に倣って、儀礼的に同じようにする。
気まずいな、とぼくは思った。高校のクラスメイトではあるけれど、友達というほどではない。連絡先は知らないし、学校外で会ったこともない。
何度か言葉を交わしたことがある程度で、彼とぼくの関係性は単なるクラスメイト同士。それ以上でもそれ以下でもない。
ぼくが横断歩道を渡り終えるのを、彼は律儀に待っていた。「やあ、今野君。おはよう」
「おはよう」ぼくは彼の三分の二ほどの声量で言った。
自然と、彼と肩を並べて歩き出す。行き先が同じだから、必然的にそうなる。
「早いね」
彼がそう言ったから、「そっちこそ」とぼくは返した。
「まあね」彼は口元を緩めた。「こうも寒いと、嫌でも早くに目覚めるよ」
「確かにそうだね」
「そうだ。明けましておめでとう」彼は思い出したように言った。
「あっ、うん。明けましておめでとう」
おはよう、と、明けましておめでとう、の義務的なやりとりが交わされると、あまり喋ることがなくなる。
お互い、休みの間何してた? とか尋ね合うようなテンションでもないし、そういう親しい間柄でもない。
それなら、どうして彼はわざわざぼくに話しかけてきたのだろう? 登校中にクラスメイトの存在を無視することは、彼のポリシーに反する行為だったのだろうか。
予想していたことではあるが、学校に到着するまでの十分間、ぼくらの間にはほとんど無言の時間が流れていった。
まだ早い時間帯のため、教室に到着するのは、ぼくと彼が一番乗りの可能性があった。
だから一応、職員室に入って確認してみると、二年五組の教室の鍵はまだそこに掛かったままだった。
鍵を手に入れたぼくらは、階段を上がって、自分たちの教室を目指す。
三階まで上り、冷え切った空気を纏わせる廊下を歩いた。二年五組まで近づいていくと、人の話し声が聞こえてきた。誰もいないはずの、自分たちの教室から。
「あれ、おかしいな」彼は首を傾げてつぶやいた。
教室との距離がさらに縮まると、声はさっきよりも明瞭に聞こえた。
それも、一人や二人といったレベルではなかった。大人数。二、三十人はいることを想像させるほどの賑やかさだった。
声質は高校生のそれではない。大人の、低い男の声だ。
複数の声が重なり合っている。ただそれはパーティのような楽しい雰囲気ではなく、どちらかと言えばディベートのような厳粛な雰囲気だった。
声の抑揚やアクセントから、外国語っぽい感じがした。ぼくの脳内には、なぜかイギリス議会の保守党と労働党が言い争う場面が連想された。
そういった具体的なイメージを抱きながら、教室の前にたどり着いた。引き戸の小窓から向こうを見ると、ぎょっとした。
ディスマン。まず最初にその単語が思い浮かんだ。
三十人以上の同じ顔の男たち-完全にあのインターネット上の有名な謎の人物、ディスマンだ-がぼくらの教室内で着席し、言い争っていた。
みんな、一様にディスマンの見た目をしている。服装も全員がスーツで統一されていて、何かを議論し合っている様子だった。
話している言語は英語だろうか。複数のディスマンたちが同時に発声しているため、うまく聞き取れない。
立ち上がって大声を張り上げるディスマン、座って腕を組むディスマン、教壇に立っているディスマンは議長や裁判長の役割だろうか?
あまりにも異様な光景過ぎて、観察せずにはいられなかった。
というより、この場から動くことができなかった。視線を逸らすこともできない。
ぼくにできることは、ただ呆然と小窓の向こうの景色を見ることだけだった。
心臓の鼓動が、五百メートルの距離を全力で走り終えた直後のように、恐ろしいくらい速まっていた。きっとそれは、隣にいる彼も一緒だと思う。
それでもディスマンの討論会の傍観者という状況は、そう長くは続かなかった。
一人のディスマンが、ふとぼくらの方向を凝視して、声を上げながら指差した。
すると、他のディスマンたちが一斉にこちらを振り向き、不気味なくらいひどく驚いた表情をした。みんな目玉が飛び出しそうなほど大きく目を見開き、顎が外れそうなほど大きく口を開けていた。
まるでぼくらに自分たちの姿を見られたことは、絶対にあってはならないことだと言いたげなほど、切迫した空気感が伝わってきた。
そんな空気を切り裂くように、窓辺の席にいたディスマンたちが勢いよく窓を開け、校庭へと飛び降りていった。
他のディスマンたちも、ペンギンの群れが海に飛び込んでいく要領で、続々と窓に向かって駆け出し、外に飛び降りていく。
教室は三階にあるが、ディスマンたちに一切の躊躇はなかった。
ディスマンたちが次々に教室の外に飛び出していく様子を、ぼくらは声も出さずに眺めていた。
教室内に全てのディスマンがいなくなると、ぼくは彼と目を合わせた。
どちらも言葉を発しなかった。たった今見たものと起こったことが衝撃的過ぎて、お互い発する言葉が見つからなかったんだと思う。
でも、あのディスマンたちがどうなったのかは気になる。
教室の引き戸は、鍵がかかっていた。内側からは施錠はできないはずなのだが。
解錠し、無人の教室に入った。凍えるような冷気が一気に押し寄せきた。
小走りで開いている窓の傍まで駆け寄り、校庭を見下ろした。ディスマンの姿は一人も見当たらなかった。
何人かの生徒が校舎に向かって歩いている姿が見えるだけで、そのなかにディスマンと思わしき男の姿は確認できなかった。
たかだか数十秒の間に、ディスマンたちは消えていた。
「なんだったんだ、あれ?」彼はぼくの隣で窓の外を見下ろしながら言った。
「わからない」ぼくはゆっくりと首を左右に振った。「意味がわからないよ」
「ああ、もしもあれを見たのがぼく一人だけだったら、きっとぼくは幻覚でも見たんだろうと、必死に自分を信じ込ませようとしていたと思う」
「わかるよ」ぼくは彼の目を見て言った。「何十人ものディスマンが自分たちの教室にいたなんて、今でも信じられない」
「ディスマン?」
「知らない? インターネット上で有名になった、あの奇妙な顔の男。さっきの男たちとそっくりだった」
「いや、ディスマンは知ってるよ。でも、さっきのやつらはディスマンではなかったよ。ミスタービーンだった」
「ミスタービーン?」今度はぼくが訊き返した。「冗談だろ? 全然違う。あれはディスマンだよ」
「君こそ正気か? あれは間違いなくミスタービーンだ。決してディスマンなんかじゃない」
ぼくらの間に、少し険悪なムードが漂った。
まさか、ぼくらが目撃した謎の男たちの容姿がディスマンかミスタービーンだったかで言い争うことになるなんて、一体誰が予想できただろう?
でもこの議論は白熱した。〈ディスマン及びミスタービーン論争〉は、教室に三人目の生徒が入ってくるまで、およそ十五分間は続いた。
議論はどちらかが折れることはなく、妥協点も見出せなかった。お互いが自分の言い分を頑なに譲らなかった。
ぼくは彼らの写真を撮らなかったことを後悔した。写真という物的証拠があれば、客観的な視点で検証できるはずだった。
しかし、ぼくら二人だけが遭遇した奇妙な体験、この特別な共通点は、ぼくら二人の仲を急速に近づけた。
議論は納得のいく形で終結しなかったけど、ぼくは彼という人間が気に入ったし、彼の方もぼくという人間が気に入ったみたいだった。
例えばぼくは、彼の主張の論理展開、演繹法や三段論法を多用したロジカルな性格を気に入った。
教室に入ったクラスメイトが全体の半分を超えた頃、彼は言った。「なんだか君とはいい友達になれそうな気がするよ。よかったら連絡先を交換しないか?」
ぼくは快諾し、そうしてぼくらは友達になった。
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