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日の丸文庫「影」山田秀三社長の貴重な寄稿│辰巳ヨシヒロ、さいとう・たかを、佐藤まさあき、松本正彦、水島新司の生みの親

劇画ファンには有名な山田兄弟。二人で日の丸文庫を創業しました。

日の丸文庫はレーベル名で、出版社名は何度も変わっています。

東洋出版社 → 八興 → 光映社 → 光伸書房

兄・山田秀三が社長、弟・山田喜一が専務で、辰巳ヨシヒロさんの「劇画漂流」では個性的な姿が描かれています。

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出版社の社長として、貸本のサイズについて辰巳ヨシヒロさんと話す姿。

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松本正彦さんの「劇画バカたち」でも登場します!

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勢いのあるおっさんです笑

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日の丸文庫の経営が苦しくなり、有価証券偽造罪で逮捕されたり、東京にいった久呂田まさみ、辰巳ヨシヒロ、さいとう・たかを、松本正彦を恨む姿など、商人の生き様を堂々と見せてくれる魅力があります。

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しかし、この山田秀三社長、著書があるわけでもなく、当時のマスコミに大きく取り上げられるわけでもなく、本人からのコメントがほとんどありません。

わたしは、顔写真も見たことがありません。

「影」を創刊し、劇画文化を作った出版社の社長で、漫画の中では多く登場するにもかかわらず、です。

どんな人物だったのか、気になります!

「ガロ」の青林堂の長井勝一さん、「週刊少年チャンピオン」のカベさんこと壁村耐三さんは、肉声が多く残されています。

日の丸文庫の山田秀三社長に話を戻します。

本人が寄稿した文章を見つけました!

日本全国に貸本屋が30,000軒あった昭和30年代、同業者の組合が作られました。

「全国貸本組合連合会」

組合による「全国貸本新聞」に、山田秀三社長が寄稿しているのです!

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「全国貸本新聞」は昭和48年に休刊となっていますが、こちらの復刻版で紙面を読むことができます。

20,000円もする本で、すでに絶版です。私は自宅近くの図書館が幸運にも所蔵していました。

山田秀三社長が「第25号 昭和34年9月12日発行」に書いた『日の丸文庫の歩みと今後』から引用します。

最初「影」を発刊したときは、問屋さんからも同業者からも、マンガの題にあるまじき一字の題はアカン!短編バカリで面白ナイカラ早ヤメロ!等いろいろ御注意戴いたが私は、B6一二八頁 A5九六頁とまるで政府の配給物の様に「ワク」に限られた出版物は、必ずや粗悪品になり、出版が安易に流れ、製造が簡素になるにつれて、誰でもが出版でき、次第に読者から飽かれるのではないかとの危惧より、苦しみ乍らも続けてきた。

 辰巳ヨシヒロさんの「劇画漂流」で、「影」というタイトルがつけられた場面もありますが、出版社の経営側からみたタイトルの裏話がたまりません。

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「影」の人気がでてくるにつれ、誌面でいろいろな企画をします。

冒険ではあるが、一つのタイトルを続けて、読者と目に見えぬ意思の流通をはかる事をモットーに読者ルーム新人杯等の紙面も次第に増していった。

「影」の新人杯から漫画家人生をスタートしたのが、「ドカベン」「あぶさん」の水島新司さんです。

「影」第一回新人漫画コンクール・新人賞 第二席でした。

入賞を機に地元の新潟から日の丸文庫のある大阪にでて、住み込みで編集の雑用をしました。(詳しくは以下の記事で)

「全国貸本新聞」に戻ります。

「影」にどれだけの人気があったのか、についても山田社長が書いています。

現在読者からの投書は一ケ月平均二千通、殊に夏休みは三千通を突破すると云う盛況にて、その点製作者として洵に嬉しい悲鳴をあげています。

「影」の発行部数については以下の記事に書きましたが、一万部前後のようです。貸本は一冊につき10人に貸し出されていると計算すると、10万人が読んでいることになります。一ケ月に二千通が届いていたとしても不思議ではありません。

「全国貸本新聞」の寄稿でも、発行部数について触れています。

八月上旬刊の影別冊「黒い芽」に80頁のフロクをつけましたが、私はみなさんの御協力でせめて、貸本屋さんだけの雑誌として目標一万五千を第一目標にがんばって居ります。只今の発刊数九千二百部あと五千部いろいろの面での御指導御協力を御願いいたします。

最後に、山田社長のおちゃめな性格がわかる文章を引用します。

毎月九日(魔像発売)二十五日(影発売)をお忘れなく!
「アッ」コマーシャルが長過ぎました。ではこのへんで……

今回、「全国貸本新聞」で山田秀三社長本人による文章が読め、人柄が少しですがわかりました。他にも資料がありましたら、また紹介していきます!

追記「日の丸文庫 山田秀三社長は改名していた」

山田社長の「全国貸本新聞」への寄稿文ですが、実は一点、腑に落ちないところがありました。

寄稿文のタイトルと名前がこのようになっていました。

日の丸文庫の歩みと今後…… 山田泰之

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山田「秀三」ではなく、「泰之」となっているのです!

専務で山田社長の弟は、山田喜一です。

誰なのか?

文章は明らかに山田社長が書いた内容です…

この疑問が一気に氷解しました! この本に答えがあったのです!

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桜井昌一さんが「ガロ」に連載した文章をまとめた本です。発行は1978(昭和53)年と、40年以上も前。

貴重な本で、古本でもほとんど出回りません。Amazonのマーケットプレイスでも、品切れている時があります。私は近所の図書館にあったので、運よく読むことができています。目次を見てください。

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話を戻します。この本に、山田「泰之」の理由が書いてありました。

山田社長、専務にとって、光伸書房の設立は背水の陣だった。八興の負債は莫大で、少しの失策も許されない状況であった。社長、専務は神仏にお伺いをたてて方位の吉凶を占った。その結果、屋敷の庭にあった古井戸が鬼門に当たるということになり、鬼門除けの呪法を用いた。また姓名判断によって、社長は名前まで変えてしまったのである。

最後の一文。改名していたのです! 不渡り手形をだして自身が逮捕され、営業を停止していた会社を再起させるにあたって、神頼みをしたということでした。






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