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「ドカベン」水島新司の日の丸文庫「影」デビュー作と現在※ご冥福をお祈りします※

「ドカベン」や「あぶさん」など、野球漫画で一時代をきずいた水島新司さん。

そのデビューについて、中野晴行さんの「手塚治虫と路地裏のマンガたち」に書かれています。

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水島新司さんは1939(昭和14)年4月10日に、新潟で生まれました。

同い年の漫画家は、ちばてつやさん、中沢 啓治さん、森田 拳次さん、佐藤まさあきさん、矢口高雄さん、水野英子さんがいます。

実家は魚屋でしたが、中学を卒業すると水産者の問屋に就職しました。親の借金を返す必要があったのです。問屋の仕事が終わってから家業を手伝いました。

ふたつの仕事をかけつも忙しいなか、漫画を描きあげました。

デビューへの転機は、貸本出版社・八興(日の丸文庫)の「影」という短編詩のコンクールに入賞です!

「影」第一回新人漫画コンクール・新人賞 第二席を受賞しました。

「影」は、辰巳ヨシヒロさん、松本正彦さんが中心になって執筆し、さいとう・たかをさんや佐藤まさあきさんも描いていた伝説の貸本漫画です。

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第二席の入賞も本人にとってはうれしかったでしょう。

実力的にはトップだったのですが、新人としては完成度が高すぎるという声があり二席となったのです。

この時のエピソードが「ぼくは劇画の仕掛人だった」にも書かれています。著者は、辰巳ヨシヒロさんの兄で、「影」にも執筆していた桜井昌一さんです。

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水島の作品は二位であった。選考は山田社長の自宅の二階で行われた。選者には劇画工房の人たちがあたり、ぼくもその一人として加わっていた。この第一回新人マンガ賞に対する応募作品は三十点をかぞえ、その中に水島の作品は三本あった。

問屋と実家の魚屋で働きながら、3本も作品を応募したのです。

しかも、投稿した作品のレベルも高いものでした。

水島のマンガの技術は応募作品の中では群をぬいていて、一位に推薦する人もあったほどだったが、新人らしい新鮮さに欠けるということが問題になって、結局、一位の座を他に譲ったのである。

二位の賞金は2,000円でした。魚問屋での月給が6,200円とあるので、大きな額だったでしょう。

授賞式で八興の山田秀三社長に、大阪にでてくることをすすめられます。

この提案に水島新司さんは、のります。貧しい家族の貴重な働き手ですが、何とか説得しました。

親からの条件があり、一年たって漫画家としてどうにもならなかったら新潟に戻る、という前提がつきました。

大阪での住まいは、八興の倉庫の一角を改造した部屋でした。

1957(昭和32)年、18歳です。

住み込みですので、編集の雑用をこなしながら、自分の漫画を描くという、またもや二重生活でした。

3年続きました。

独立できたのは1960(昭和35)年、21歳。

あらたな住処は「日之出荘」です。トキワ荘と同じように、何人かの漫画家が住むアパートでした。

影丸譲也さんもいたようです。

日之出荘でデビュー作「わが家のホープさん」を描きあげました。

わが家のホープさん

その後、漫画家として順調に作品を積み重ね、東京に出ていきます。

「ドカベン」や「球道くん」「男どアホウ甲子園」など、野球漫画の第一人者となっていきます。

2014年には旭日小綬章に選ばれました。

「ドカベン」は「週刊少年チャンピオン」での連載が、

2018年6月28日発売号で終わりました。

なんと連載は46年にわたり、単行本は205巻でました。

最終回の欄外に、

「水島新司先生の次回作にご期待ください」と

書かれていました。

80歳を超えていますが、同い年のちばてつやさんも「ひねもすのたり日記」を「ビッグコミック」に連載しています。

ぜひ、次回作に期待したいです!






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