ビースターズ-0

成分表①『ビースターズ』のジュブナイルな大人らしさについて

マンガを読んで、そこに大人らしさを見出すと、感動する。

それは、何十年も好きで読んできたマンガというメディアに、本質としての子供っぽさがあることに、気がついてしまったからだと思う(自分はその子供っぽさをジュブナイル性と呼んでいる)。

さいきん読んで「大人らしさ」を感じた作品に『ビースターズ』(板垣巴留/「少年チャンピオン」連載・単行本①〜⑪)がある。

ディズニーピクサーの『ズートピア』とよく似た設定の、動物擬人化キャラが活躍する少年マンガだ。

作者・板垣巴留は『ズートピア』の世界的ヒットの何年も前から動物キャラの短編ばかりを描いていたそうで、映画公開と自身の商業誌デビューが同年であったことは「なんとも間が悪かった」(短編集『ビーストコンプレックス』あとがき)と彼女は言う。

『ビースターズ』も『ズートピア』も、肉食、草食、大小さまざまな動物が同じ街で暮らす、その社会生活を描いていて、つまり両作は「動物園としての人間社会」という根本のアイディアを同じくしている。

けれど『ビースターズ』は、セックスと暴力というディズニーが扱わない二要素を、物語の主な駆動力としているのだから、トーンはまるで違う

『ビースターズ』の「大人らしさ」は、その世界で、肉食動物と草食動物は、互いに「捕食者=エサ」ではなく、よき隣人としてあることを社会に要請されており、その関係の背後にある恐怖が、登場するキャラクターたちの意識を、そして社会を、うっすらとむしばんでいることにまで視線が届いていることに、現れている。

『ビースターズ』の彼らは、年齢的には高校生と設定されている。

女性である白ウサギ(ドワーフウサギという小さなサイズの種)は、そのセックスを、異種族のオスにカジュアルに差し出す「ビッチ」として孤独な学園生活をサバイブし、

もの静かなハイイロオオカミは、その白ウサギに強く惹かれつつ、自分の「恋」が、食欲の変形したものではないかと怖れ、

強烈な自負をもつ学園のリーダー・アカシカは、自分の「食べられる存在としての弱さ」に葛藤しつづけている。

(2巻p.30)

属性として弱者たらしめられた者が、蹂躙されることの恐怖と共に生きる。

それは、たとえば女性が、この現実社会で経験することだ。

主人公であるハイイロオオカミは、イヌ科最大の強靭な肉体を持ちながら、争いや自己主張をひたすら避けてきたのだけれど、愛に目覚め、世界の矛盾と残酷さを知り、弱いものたちの守護者であることを、自ら引き受けていく。

(10巻p.112-113)

主人公は、ものすごく唐突に「愛」を口にする。

同じ10巻には、もうひとつ、彼がはじめて生きた肉(といっても蛾の幼虫)を口にしたトランス体験の影響で、

誰も不幸にはさせない

という、マントラのような決意をつかむ場面があって(p.86)、ここに至って、自分は、本当にこの物語を読んできてよかったと思った。

成長は、少年マンガの本義(エッセンス)だけれど、ライバルに勝ったから成長とかそういう話ではなく、主人公がつかんだ何かを、こんなふうに言葉で言って、その「何か」が信じられる、そんなことは(宮本武蔵が「明鏡止水」と言ったって、それは言葉でしょと思ってしまうのだから)なかなかない。

ただ、その前後の巻には「タイマンで決着」「修行でレベルアップ」「自己犠牲としての友情」といった、いかにも少年マンガな展開があって、キャラクターたちの思考が設定に引っぱられて退行することへの危惧を感じないでもないのだけれど、たぶん、この作者には、そういういかにもな「お話」に対する愛情があり、またその「お話」自体を構造として使っていく描き手なのだろうと思う。

デビュー作を含む短編集『ビーストコンプレックス』は、昭和の昔でいう中間小説のような「おとな」の「お話」を動物たちに演じさせるという趣向の連作で、それは、彼らが暮らす「街」こそが物語の主役なのだ、ということを、浮かび上がらせていた。

初連載である『ビースターズ』(2016〜)においては、一転して、ド頭から、そのジュブナイル性が全面展開している。

この世界では、学園のリーダーが社会全体のリーダーの座につくという伝統があり(その地位の名称をビースターという)、その学園の中心は演劇部で、ゆえに学内の新歓公演は一大事であり、学園内で食殺事件が起こり、しかし教師も警察もほとんど物語に介入せず……etc.etc.

児童向けと言うしかない設定の舞台に、性と暴力の可能性にむけて成長する肉体を持った主人公が立たされている。

子供の妄想に閉ざされた世界に「若い大人」になりつつある彼がいて、だからこそ『ビースターズ」は思春期の神話になりうるのだし、その世界の童話的かつ暴力的な初期設定に抗いつつ、この自分に生まれた意味を引き受けていくという、マッチポンプのような矛盾と葛藤が、キャラクターそれぞれの物語を、輝かせている。

つまり、ジュブナイル性という限界を、それぞれのタマシイが立ち向かうべき障壁に反転させた、美しい少年マンガとして『ビースターズ』はある。

登場する動物たちに、豊かでコミカルな演技が振り付けられていることは、物語世界を善きものに向かわせる作家の意志を、信頼させるに足る。

願わくは、ストーリーテリングのすばらしい推進力で先へ先へと進んでいくこの作品が、光に満ちた終章をむかえますように。

[画像はすべて『ビースターズ』(板垣巴留・秋田書店)より]

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