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回想録 三(その2)、湯原から内山へ「終戦まで」小学生~

回想録三(その1)
からの続き

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内山の川原で。


外にも子どもだけでやる行事があった。

4月29日は「村祭り」の後その日に「水浴び場」を滑津川なめづがわに石で堰を作り水をためる。少し下流のは女子専用の『ドヨー(堰)』と呼んだ。

各部落ごとに作った。4月の皮は冷たくて、震えながら小学生で作った。夏になると祇園祭りに神輿を出した。4年以上で神社のそばにあった公会場で、3日くらい前から、空樽に縄を巻いてその縄に榊の葉を刺して上にトタンで作った鳳凰を飾る。

7月31日の夜に道に出て担ぎ二往復ぐらいした。こうして地区の人たちと仲良くなった。学校から帰ると、同級生でない友達と遊んだ。

家での仕事は庭掃き(竹ぼうきで)や小路こうじも掃く。小学1、2年はウサギの餌とりが当番の役、どこの家でも兎や鶏を飼っていた。3、4年生はにわとりの餌を採りに行って、種々の遊びも教わった。食べられる草や草や木を使っておもちゃを作る。ウサギが喜んで食べる草も自然に覚えた。サワガニも湧き水の所の石の下で捕まえ、茹でて焼いて食べた。 

三年生

三年生は北農きたさくのうぎょうこうこうを出た若い先生だ。

「ああ無情」(レ・ミゼラブル)を読んでくれた。職員室の本棚にある本(文学全集)で学校にある本はそれだけ。子どもは借りられない。

音楽の時間

音楽の時間は若い女の先生で、男の子は騒いでいて授業にならない。泣きながら職員室に帰ってしまった。その後、担任が怒ってきて、全員並ばせてビンタを1回ずつもらい「出ていけ」と言われ、皆で出ていった。

途中、伴田(疎開で来ていた)君の母親がいて、(後で知ったが、有名な新劇の女優さんで、戦後映画の主役で出ていた)「がんばって」みたいに言われた。

その後、うちの物置小屋で遊んでいた。次の日は何事もなかったように、学校へ行った。

四年生から

四年生になると野中げんざいののざわきたこうこう出の先生に変わった。平賀の家から来ていた。平賀の城跡へ連れて行ってくれた。

次は中込の医者の息子が来た。その後出征していって、年配の先生が来た。

三人の若い先生は皆兵隊になった。(中学を卒業して同級会にそれぞれ一回きてくれた。)その後5年、6年と担任が変わった。

敗戦の8月15日までは戦争一色であった。

・学校中でやったこと

宿題は無かったがいろいろ課題があった。

・夏休みは薬草や繊維の原料の草を1年から6年まで、それぞれ何匁が目標になった。山の中や畑の土手に生えているものだ。

薬草としてゲンノショウコ、カラマツソウで、繊維にするのは、アカソだ。桑の皮は地域で集まって皮むきをした。剥きかけた皮を下駄の間にして引っ張るとすっと剥けた。桑は蚕にくれた後の桑だ。

昭和20年8月15日 敗戦 国民学校4年

水浴びをしていた。そこに6年生が来て、「日本が敗けた」とラジオで言ってる。

水遊びをしていた皆が「うそだ」と言って皆で6年生に水をかけた。

青空に少し雲が浮かんでいたのを覚えている。

「家の小屋へ疎開していた東京のおばさんたちが「女の人はアメリカ兵に連れて行かれるそうだ」と言って怖がっていた。

食べ物がなくなってきたが農家では食べるだけはあった。その代わり「供出|《きょうしゅつ》」と言ってこの家は田んぼがこのくらいあるはずだから、何俵出せと役所から言われ、しぶしぶどこの家も出した。それで麦を混ぜたご飯をたべるようになった。肥料もなくなっていたので米の取れ高は少なかった。

商店には売るものが少なくなり、自給自足の生活だった。

母は三人の子を育てながらの農業で、近所の人や湯原の祖父の田植えの時は、青年団婦人会の人がおおぜい手伝いにきてくれた(写真がある)。

臼田や野沢中の生徒も勤労奉仕で来てくれた。

農業高校(今の)生徒は仕事はできたが、野沢中の者は「水が冷たい」とか「ぬるぬるして気持ち悪い」と言っていた。それで野沢高校げんざいののざわきたこうこうの生徒より、農学校の方に憧れていた。

学校では国語や修身の本に黒く筆で消していた。

・父がその冬帰って来た

近所のおじさんたちも次々に帰って来た。知っている人は皆無事に帰って来た。湯原の長男はシベリアに抑留されていたので遅くなった。

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三、(その3)隣の松崎さんへ

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