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回想録 三(その3)、隣の松崎さん

回想録 三(その2)
からの続き

 湯原から内山へ来て、いろいろ教わったのは松崎のじいさんやばあさんだ。子守りが縁で家族同様の付き合いになった。孫のように可愛がられた。
キノコの見分け方、わら細工、薪割り、魚すくい。
山の危険な所、川の危ない所など、見たり聞いたりして覚えた。
又、村にあった共同浴場へも行かせてもくれた。
「家では入会していなかった」から。
 上の娘二人が製糸会社に住み込みで勤めていて、毎月家にお金を入れていた。会社が芝居を呼んだ時も連れて行ってもらった。
内山での生活が始まってから中学間卒業まで自分の家のようにしていた。
おじいさんは教養人で、新聞を声を出して歌うように読んでいた。日誌も和綴じ紙に筆でつけていた。近所の人とは余り親しくなかった。
「そのうちに神風が吹いてアメリカの軍艦が沈む」と言っていた。
その頃皆、神風を信じていた。
 中学生になって、グミがなって、その木に登って採っていた時(六月二十五日(昭和25年?)二軒裏のラジオで、朝鮮戦争が始まったと言っていた。次の年同じころ、休戦になったと報じていた。
 戦争では、武器の修繕や物の輸出で日本の工業は生き返った。

信大へ合格して行くことになった。父と対立して口もきかなくなっていたいた頃、松崎のばあさんが「金を送ってもらう時は、父親の名前にしてハガキを出すように」と教えてくれた。
 
松崎さんとは、味噌炊きや田植え、蚕あげなどお互いに手伝っていた。

 長男(父の兄)が戦争から帰って結婚したが、嫁姑がうまく行かず、別居していた。
じいさん、ばあさんも家の人の反対を押し切って、村では名家の家だったが、家を出た。

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