小説「雪上の詩人」


 その時の私は、運命に翻弄された顔をしていたに違いない。
 なにせ大雪警報が出ているなかで帰宅していて、三度も車が立ち往生したのだ。二度まではたまたま周りにいた人が助けてくれたが、三度めは駄目だった。すでに夜の11時を過ぎ、人気のない住宅街に入りこんだ場所だ。この住宅街に私の家はない。普段通る道が雪と消雪設備の水とで埋まっていたので、迂回するしかなかったのだ。
 住宅街の入り口にはすでに、いく台かの車が停められていた。道沿いにある小さな工場の社員らが、普段から勝手に駐車しているものとみえる。この様子であれば、私の車もしばらく放置して構わないだろうと思った。どうせ動かないのだから仕様がない。
 私は雪帽子をかぶった家々の明かりを見あげた。洋風の高床式住宅ばかりがそびえ立っていて、なんとなくよそよそしい冷たさを感じた。それらの家を訪ねて助けを乞う気にはなれなかった。こんな日に限ってスマートフォンを家に忘れてきたのが悔やまれる。
 こまかな雪が降っていた。いつも車移動なので、傘を持っていない。私は車の施錠をして、のそのそと歩きだした。15分くらい歩けば自宅に着くはずだ。たまには運動して、主治医を喜ばせるのもいいだろう。

 こういうわけで、夜中の雪道を歩いている。面白いほどに息が白い。長靴がぬかるみを踏む音を聞いているうちに、どこかで読みかじった怪奇話を思い出した。たしか、雪景色のなかを一人で歩きつづけると、しだいに精神がおかしくなってしまうという話だった。長靴に裂けめがあるので、水が滲みて足裏が冷たくて仕方がない。

 ふと、道の端になにかの塊があることに気がついた。近づいてみると、暗い色のウインドブレーカーを着た男性がしゃがみ込んでいるのだとわかった。つば付きのニット帽から白いもみあげを伸ばし、銀縁の丸眼鏡を水滴だらけにしている。彼は微動だにせず、路肩の雪上に置かれた長靴を凝視している。長靴は幼児用のもので、片方しかない。泥まみれの外側は赤く、内側にいちごの模様がプリントされている。
「こんばんは。大丈夫ですか」
 どうも尋常でない様子だし、この寒さが身体にいいわけもない。私は思いきって声をかけてみた。

「こんばんは。いや、大丈夫です。好きでこうしているので」
 男性は存外しっかりした声で答えた。口を開く前の男性は70歳すぎかと思われたが、朗らかに笑うさまを見ると10歳は若く見える。私は彼の気さくな様子に安心した。実のところ、先ほどまでの怪奇的な想像と相まって、少し恐怖を覚えていたのだ。心配性の私としては、相手が幽霊でなく生きた人間であることのほうがよっぽど怖いのである。
 しかし、男性の帽子や肩に雪が積もっているのを見ると、そのまま通りすぎるのも憚られた。もしかしたら、私が「大丈夫か」という聞きかたをしたから、思わず「大丈夫」と答えてしまったのかもしれない。言いかたを変えてみようか。しかしやっぱり、お節介かもしれない。

「……いや、題名をつけていたんですよ」
 私の葛藤を汲んだように、男性が言った。
「題名?」
「ええ。私は詩人でして。夜の散歩をしていたら、雪の上にちっちゃな長靴が落ちている。なんとも、意味深な光景でしょうが」
「言われてみれば、そうですね」
 どう見ても棄てられているようにしか見えない。私は早くも話しかけたことを後悔しだした。彼は少し変わった人なのかもしれない。足裏がひどく冷たいことを思いだす。
「例えば、『失われた無垢』なんてどうでしょう。『忘れられた冬』もいいな」
「冬は始まったばかりだと思いますけど」
 私は愛想笑いをしつつ、どうやって話を切りあげようか考えていた。この話題に興味が湧かないわけではない。私は文学が好きだし、詩も好きだ。詩人を名乗る人物との邂逅自体、好奇心がそそられずにはいられない。しかしなにぶん、じっくり語らうには気温が低すぎる。
「でもね、お姉さん。砂浜にサンダルが片っぽうだけ落ちていたら、『忘れられた夏』って感じがするでしょう。それと同じように、雪の上の長靴は『忘れられた冬』じゃないですか」
「その場合、今日みたいな新雪じゃなくて、残雪のほうがあっていると思います。砂浜は、ええと……夏以外でも存在するでしょう。つまり場面が秋でも成立するわけです。『忘れられた夏』は秋の季語で、『忘れられた冬』は春の季語ですよ。季語だとするなら」
 さすがは詩人。たどたどしい説明にもかかわらず、男性は目を輝かせた。
「話せますねえ!あなたは話せる。春の季語、とはね。言い得て妙だ。――あなたならどう題しますか。この光景を」
 彼は興奮した様子で、長靴に降りつもった雪を払った。おかげで、泥が少し落ちて赤色が映えた。
「うーん。『残像』はどうですか」
「いいですねぇ。想像させる題が好きなんだな、あなたは。この画が『残像』だとしたら、きっとミステリー小説でしょうね」
 男性はいやに具体的なことを言ってくる。卓越した想像力こそ、詩人の証なのかもしれない。私は彼の情熱的な態度につい釣りこまれた。
「もしくは、この色を活かしたいですね。『苺摘み』とか。……うーん。しっくりこないなぁ」
 私は腕を組んで考えた。というより、腋窩に両手を挟んで温めた。男性の分厚そうな手袋が羨ましい。
「いちごはよかった。色に着目するとは、さすが女の人は違いますね。今、こういうこと言っちゃいけないんだっけか。それにしても、穏やかないい題です。道路わきに子供用の長靴が落ちていたら、若い人なら物騒な題をつけそうなもんだ。それが『苺摘み』とはね!」
「ありがとうございます」
 手放しで褒められるので照れくさくなる。もしかしたらこの人は教師だったのかもしれない。声量があるし、指導に慣れている雰囲気もある。
「もっと個人的な題をつけるのもいいと思いますよ。例えば私は今日ここでお姉さんと出会った。ですから、『赤い道標』と題するのはどうでしょう。ははは、気障か」
「あははは。――じゃあ、私は『ともしび』にしますかね。実はさっき、雪に車が嵌まってしまって。仕方なく乗りすてて、この道を歩いていたんですよ。そこにぽん、と咲いた日常、みたいな。ええと、荒んだ心に、懐かしい家庭の景色が浮かびあがってくるというか」
 自分がなにを言っているのかわからない。脳が凍っている心地がする。
 男性の機嫌はいよいよ最高潮に達したようだ。フリースの手袋をぼすぼすと鳴らして、ようやく立ちあがった。丸眼鏡から水滴が滴りおちる。

 ふいに雪が止んだ。かと思いきや、背後に現れた女性によって遮られたのだった。大きなビニール傘をさした若い女性は、無言で私たちを避けると、さっと長靴を拾いあげた。彼女は私たちを怪訝そうに睨めつけ、足早に民家のほうへ去っていった。

 沈黙だけが残された。打ち棄てられているとばかり思っていた長靴は、あの家の子供の落とし物だったのだ。男性が恥じたような顔をしているのが、たまらなく気まずかった。
「この景色は『幼な子の面影』ですかね」
 私は強いて明るい声を作って言った。
「え?――ああ、ああ、そうですね。……それじゃ」
 男性は愛想っぽく笑うと、そそくさと去っていった。
 帰り道が同じでなくてよかった。私はそう思いながら歩きだした。足裏の感覚がなくなっている。きっと霜焼けになっているだろう。


2020.12.17

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